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絵歴Talk2000 さんの新古賀歴史探訪

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古賀の歴史探訪とは関係ないのですが、歴史が面白くなった
 経緯を書いてみました。参考まで。

           {平原遺跡をめぐる人々}                

                   平成12年6月             
                       九州産業大学  藤野 義一  
                                      

◇古代史への興味

(森貞次郎先生と鏡山猛先生)
小・中学校のころ、歴史の授業はあまり好きではなかった。丸暗記が苦手であったか
らである。中学4年(S17)の時、森貞次郎先生に歴史を習うようになって、何と
なく興味をおぼえるようになった。先生の得意な古墳調査の苦労話や自慢話が時々で
るからである。飯塚や糸島の古墳の話もでたが、当時は平原遺跡はまだ見つかって居
なかった。(発見は昭和40年2月1日)
4年生の後半に先生がわが家の近くに引っ越してこられたので、遊びに出かけるよう
になった。いつもは機嫌よく対応される先生が、ある晩なんとなく不機嫌であった。
奥さんが「学会に出した原稿が返却されてきたからよ。」と説明されたが、こちらは
意味がわからず、きょとんとしていた。先生は、原稿をみせながら、軍の検閲で「北
九州のこの地図を出してはいかんと言うのだ。」と憤慨されていた。みると遠賀川の
西側に三里松原があり、その海岸線は砂浜であるから、点々の記号がついているのは
当然である。「これはアメリカ軍に上陸地点を教えることになるから点々を消せ」と
いうのが軍の言い分である。いま考えると、敗戦間近で本土決戦をとなえていた日本
軍のあわれな心理状態が伺える話であるが、当時は鳴く子もだまる軍の指示に、先生
もやむなく原稿の修正を行われたようである。
そんな話を母に報告したら、母の縁戚に九大で考古学専門の鏡山猛という人がいると
いう。あとで知ったが太宰府関連の考古学で著名で、のちに九大で教授になられたか
ら、森先生と同じ年代の仲間である。森先生も後に学位をとられ、九産大の教授にな
られた。
最近古賀市の鹿部・東町遺跡が発掘調査されたときの調査委員長は森先生であったこ
とを知り、ますます懐かしく思えてきた。
ただお二人から直接平原遺跡の話をきく機会はなかったのは残念であるが、考古学に
なんとなく興味を覚えたのは、こんな縁があったからであろう。

◇邪馬台国

(宮崎康平と森繁久弥)
高校・大学は理系にすすみ、戦後は電機メーカーに就職したので、考古学などから全
く遠のいてしまっていた。戦後の日本経済が成長し社会が少し落ち着きを取り戻した
ころ、宮崎康平の「まぼろしの邪馬台国」が九州文学に連載され、S41に単行本と
して出て話題になり、私もはじめて邪馬台国なるものを知り、特に九州説に興味をも
った。
たまたまS43年頃東京に出張して、空き時間ができたので有楽町にでたら、森繁久
弥主演の邪馬台国の劇が上演中であった。森繁にも興味があったのでふと覗いてみた
くなり切符を買った。ストーリーは宮崎康平の一代記であり、宮崎が島原鉄道の経営
で苦労し、過労から失明し、さらに妻に逃げられ、再婚してから邪馬台国の調査にう
ちこむまでの一生を演じていた。宮崎と森繁が早稲田大学の同窓であり、共に津田左
右吉先生の歴史の講義を聴いた仲間の縁で出来たドラマの上演であったらしい。
記憶に残っているのは、今までの魏志倭人伝の研究が、その文章の解釈論議に終始し
ているのにたいして、康平は視力を失ってからの研究であるため、妻の音読をテープ
レコーダで何回も聞き直して、その音感から新しい解釈を見いだしたということであ
る。不弥国を二つの海をもつ国と考えたのもその例であろう。
彼の結論は近畿説を否定し、九州説をつよく打ち出していて、彼の本拠地である島原
を中心とした有明海沿岸の広い範囲を候補地ということにしている。戦後最初の邪馬
台国論で、大衆的邪馬台国ブームの導火線になった功績は大きい。

◇平原遺跡の見学

(九工大グループと平山勲先生)
電機メーカーを辞職し九州工大に移ってからは、職場に歴史の先生もおられ、ときお
り北九州の考古学の話題を耳にするようになった。それは考古学も近代科学を取り入
れるようになり、出土品の硬度を科学的に計測したり、金属の成分分析を行うように
なって、工学部でも関係のある先生が増えてきたからである。
昭和55年頃に九工大グループで平原遺跡を見学にいこうという話があり、直接の関
係は無い私も参加させてもらうことにした。平原遺跡の発見は新聞で知っていたし、
義弟の平山勲先生が当時糸島高校勤務であり、高校に出土品の一部が保管されている
話などよく聞いていたからである。中型バス1台で20人位だったと思う。
歴史専門の先生が交渉されたおかげで、前原町(現在は市)の教育委員会の方が三雲
遺跡から平原遺跡まで親切にガイドされ、かなり専門的な内容まで熱心に説明された
。資料館もまだ県道沿いの小さなもので、われわれ以外には全く人影がなかった。
遺跡の発見以来研究を独占して進めてきた原田大六先生の功績は大きいが、一方では
全国的に客観的評価を行う環境が損なわれた感もある。
この頃より卑弥呼の墓か否かに興味をもち、これまで宮崎康平と森貞次郎の本くらい
しか読んでなかったが、原田大六その他の本をおりにふれ買い集めるようになり、今
は10冊以上にふえている。

「昭和55年の遺跡は原野の中」
昭和55年の遺跡は原野の中

◇吉野ヶ里遺跡の発見

(西谷教授と石松芳光氏)
吉野ヶ理遺跡の発見は平成元年であり、再び邪馬台国論争に火がついてブームとなっ
た。吉野ヶ里は義弟の石松芳光氏の郷里であり、風土的な地域情報をいろいろ聞かさ
れていたので、新聞にでた直後に現地見学に妻と出かけた。
この頃から邪馬台国は小説や映画の題材にもなり、松本清張なども、古代史の本をだ
すとともに、九州での文化講演会で盛んに自分の推理を披露していた。
また電気関連学会九州支部大会が九電ホールで開かれたとき、特別講演で九大の西谷
教授が講師で「吉野ヶ里と邪馬台国」の話をされた。
結論は人口7万の規模ではないから、やはり近畿であろうということで、みんなをが
っかりさせていた。(ちなみに西谷教授は京都大学出身であり、京大は皆近畿大和説
でまとまっている。)
最初の現地見学の時はまだ発見から間もない頃で、人出も多く出店が並んでいたが、
現場は発掘された穴や還濠だけで、出土品がプレハブの建物のなかにところ狭しと並
べられていた。
その後は高床式の建物や環壕などが整備され、立派な遺跡として整備されたあとを再
び見学した。しかし邪馬台国が吉野ヶ里という決定的な出土品はなく、今日にいたっ
ているようである。

◇平原遺跡公園と伊都国歴史資料館

(神田九産大学長と稲葉ファナック社長)
吉野ヶ里遺跡が立派な遺跡となったので、その後の平原遺跡はどうなっただろうかと
思っていたころ、神田九産大学長(もと九大学長)が公開講座で平原遺跡の講演をさ
れたので、早速聴講した(H4年)。 先生の本職は金属の化学分析学で、平原から
出土した鏡類の精密分析を依頼されたのがはじまりで、考古学者仲間と縁が深くなら
れ、原田大六先生の死亡後、その考古学的報告書の編集委員長をされた。
その結論は鏡の年代は弥生時代(150年頃)で、卑弥呼より100年も以前である
ことが判明した。 原田大六氏も同じ考えで、平原遺跡は天照大神の墓と推定すると
いう結論であったが、神田学長たちの報告では、科学的記述のみで、祭られた人物に
はふれていない。
天照は神話の神で、現代の古代史では謎の存在とされている。また鏡が古いものであ
っても、卑弥呼の使者が古い鏡をもらって帰ってきた事も考えられる。あとで述べる
卑弥呼の墓説をとっても、矛盾はしない。
その直後H5年に、今度は家内と一緒に平原遺跡を見学にでかけた。かって原野に近
い状態であった周辺はすっかり開発されて、遺跡のすぐ近くまで住宅が迫っていた。
本体部分は遺跡公園として綺麗に整備されているが、面積はせまくなり、吉野ヶ里と
は比べ物にならない。
遺跡公園の入り口に大きな石碑がたてられており、その文字は神田学長の文字だとい
う。しかしこの遺跡の整備や石碑の費用を出したのは、ファナック社長の稲葉清衛門
氏である。
稲葉氏は機械技術者出身であるが、趣味は考古学であり、自宅には技術書はなく考古
学の本だけであることや、原田大六氏を呼んで会社で講演してもらったことなどは、
本人の自伝を読んで知っていた。そんな縁で公園の整備に多額の寄付をされることに
なったのであろう。
その後ファナック社が、大分県の平松県知事の勧誘で、国東半島の太田村にロボット
学校をつくり、私はその運営委員の一人に選ばれたので、その開所式で現地に招聘さ
れたとき、稲葉社長より直接話を聞いた。最初社員が原田大六氏に講演依頼の交渉に
出かけたときは、メーカーの依頼の趣旨を怪しまれて拒絶され、社長自らの交渉でや
っと講演が実現したそうである。社長の考古学への執念がうかがえた。また石碑の文
字を稲葉社長に依頼されたが、自分は書が下手なので、神田学長にお願いしたという
ことであった。
また神田学長からは、太田村がお母さんの里であり、子供の頃はよく帰って遊んだと
ころということを聞いて、お二人には不思議な縁があるものだと感じた
平原遺跡からの出土品はその後自治省からの資金が出て、今は立派な伊都国歴史資料
館が建設され、周辺の遺跡のものを併せて展示されている。

「最近の平原遺跡公園の入り口」
最近の平原遺跡公園の入り口

◇邪馬台国は平原遺跡である?

(古田教授、安本教授、生野真好)
邪馬台国論争で近畿大和説があるが、これは本文の記述「不弥国より南行し投馬国に
至る、水行20日。更に南行し邪馬台国に至る、水行10日、陸行1月。」と明記さ
れているのに、「南」を「東」と原文改訂して、大和に結びつけている。また韓国の
古地図で、日本列島が東西でなく、南北に描かれているのを引用しているが、これは
15世紀の文献で、3世紀には存在しない地図である。従って私は近畿説はとらない
。西谷教授の説も「7万人の人口が住むには、吉野ヶ里は狭すぎる」という論拠だけ
であるが、現代感覚と古代の実状にはそれくらいの差はあると思う。
さて昭和薬科大の古田教授は、かねて邪馬台国は「福岡平野説」であり、産能大の安
本教授は、「甘木説」である。どちらも直接逢ったことはないが、論争や著書でよく
知られてている。
九州説の根拠はつぎの解釈にある。伊都国までの記述は、「方向・距離(里数)・地
名」の順序となっているので、国を記述の順番に直列に考える。伊都国から先の記述
は、「方向・地名・距離(時間)」の順序となっているので、すべて伊都国を原点と
して、各国への距離を放射状に解釈する点である。
そして最後の12000余里は、朝鮮の帯方郡からの総計を意味するとしている。
古田氏は12000余里に1000里ほど余裕があることを、対馬や壱岐の島の長さ
をつけ加えればよいとし、安本氏は、重い鏡100枚を運ぶために、水路を回り道し
たものと解釈している。
今年3月にアクロスで生野真好氏(九州古代史研究会)の講演会があり、新しい説を
聴講した。
魏志倭人伝の著者「陳寿」の他の文書を徹底的に調べたら、彼の文章のスタイルは、
ある国の「主都」から次の国の「国境」までの距離で表現していることが解った。し
たがってその国の国境から首都までの距離を加算すれば、1000里の余裕はうずま
ることになる。
しかも、「伊都国から邪馬台国への距離を明記してないのは、距離が無い(短い)か
らである。」
「したがって邪馬台国は、平原遺跡である。」という新説であった。
平原遺跡から出土した鏡の数は、いまでも全国一であり、大きく40枚以上であるこ
とを考えればその可能性は高いが、70000人の集団生活や、大きな墓などの条件
はいまいちである。
魏志倭人伝の世界を、文献のみの世界と解釈すれば、生野説も成り立つが、考古学的
裏付けを求めればまだ不十分である。生野氏は「文献の世界でわりきるべしという。
なぜならば、決定的証拠として、魏国からもらった金印がでれば良いというが、これ
は公印であるから、卑弥呼の墓には入れない筈である」という。

まだまだ論争は果てしなく続きそうである。           以上
「平原遺跡から出土した日本最大の三角縁神獣鏡」
平原遺跡から出土した日本最大の三角縁神獣鏡

著者:絵歴Talk-2000(gfujino@yahoo.co.jp)
頁作成:櫻井裕子(yukos@land.linkclub.or.jp)