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絵歴Talk2000 さんの新古賀歴史探訪

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『その1』魏志倭人伝と古賀

  弥生時代:BC200〜AD250


まだ文字がない頃の古代日本を知るには、考古学的に出土品から研究する方法と、す
でに文字のあった中国の記録文書から探る方法があります。記録文書で北部九州の古
代を知るには、有名な「魏志倭人伝」が最も面白いでしょう。
紀元3世紀の頃に、「魏志倭人伝」に書かれた「卑弥呼女王の邪馬台国」という日本
の原始小国家があったことは有名ですが、それが何処にあったかという問題は昔から
大きな謎として多くの研究者により論じられ、現在でも埋蔵物が発見されるたびに、
卑弥呼の墓ではないかとよく騒がれています。

当時日本は倭国とよばれており、邪馬台国と魏国とは弥生時代後期にすでに交流して
おりました。魏国の使者が朝鮮半島を経由して倭国に来た旅程(里数・日数)と方位
は、「対馬国(tsuma)、一支国(iki)、末ら国(matsura)、伊都国(ito)」までは明白
な記述があり、現在の対馬、壱岐、松浦、糸島とよく一致しています。また記載され
ている人口や、考古学的出土品からの裏付けとも良く一致していると認められています。

しかし伊都国から先の記述が簡素であいまいなために、文章の解釈如何により、さま
ざまな憶測がされています。その結果を大別すると、邪馬台国は大和説と九州説にわ
かれ、九州説にも筑紫平野、久留米平野、宇佐・中津地方、熊本、有明沿岸などの説
が乱立しています。
私は大和説には賛成しかねる点が多く、九州説が正しいと思いますが、ここでは邪馬
台国の場所には触れずに、魏志倭人伝の中の古賀市について調べてみましょう。

倭人伝には伊都国から先の近郊国を、「東南、奴(na)国に至る、百里。
東行、不弥(fumi)国に至る、百里。」と記載されています。
多くの説は、奴国を福岡平野(那河川流域)、不弥国を宇美町または穂波町と解釈し
ていますが、穂波町では距離的に少し離れすぎるように思われます。

宮崎康平氏の「まぼろしの邪馬台国」では、不弥国を「香椎から古賀の間」と解釈し
ています。ほかに宇美町を中心とする粕屋郡説をとる人は、安本美典氏、武光誠氏な
ど何人かあり、もともと宇美、香椎、古賀は同じ粕屋郡ですから、広範囲に考えれば
同一の説といえますが、具体的に古賀の地名をあげているのは、私の知る限り宮崎康
平氏だけです。

弥生の博多湾
弥生の博多湾

宮崎康平氏は、不弥(fumi)を「二つの海」と解釈し、博多湾と玄海灘の二つに面し
た海岸沿線に住み、漁業を専門とする集落群と推定しています。
弥生時代の博多湾沿岸の地図によると、現在の「海の中道」はまだ完全に繋がってい
ないので、三苫水道を経由して、博多湾から玄海灘に出られましたから、「二つの海
」をもつ国の特徴をよく表した名前だと思えます。
宮崎氏は、失明してからの研究者で、魏志倭人伝の音読テープを繰り返し聴いて、音
感から新しい解釈をみいだしたそうですが、その感性は鋭いと思います。

奴国は二万余戸、不弥国は千余家と記載されているので、奴国よりはるかに少ない人
口のようです。また奴国は「漢委奴国王」の金印をもっていたことでも有名ですが、
不弥国には残念ながらこのような具体的出土品はありません。
「戸」は高床式で屋根があり、しっかりした出入口のある家屋の意味ですが、「家」
は竪穴式の住居か、崖ぎわに片屋根をかけた、比較的に粗末で小さな家の集落と想像
されます。
奴国と不弥国が隣り合っていながら、人口や生活様式に大きな差があり、別の国とし
て官吏がおかれていた理由が解るような気がします。

魏志倭人伝より弥生時代の古賀市を推測すると、以上のような姿が考えられます。
これに対して古賀町誌によれば、これらを裏付けるような考古学的な出土品(石器、
土器、石支墓、かめ棺群、住居あとなど)が、ゴルフ場浦の向浜遺跡、久保・浜山遺
跡、鹿部・東山遺跡、久保・長崎遺跡など、海岸線に近い場所と花鶴川などの河川の
流域に多く発見されており、一部に丘陵地域の新原・水上遺跡が最近高速道路の工事
の時にみつかっています。
久保・長崎の住居あと
久保・長崎の住居あと

久保・長崎の出土品(石斧)
久保・長崎の出土品(石斧)

久保・長崎の鋳物型
久保・長崎の鋳物型

鹿部山遺跡の青銅剣は弥生時代
鹿部山遺跡の青銅剣は弥生時代

古墳などの分布図
古墳などの分布図

縦穴住居の図
縦穴住居の図


これらの出土品は、弥生時代の前の縄文時代(BC10,000〜BC200)のものと、弥生時
代(BC200〜AD250)のものがあり、古賀市には、縄文時代から人類が生活していた
ことが確認されています。
縄文時代は、漁労、狩猟、採集の生活が中心で、人口も少なかったと思えますが、弥
生時代には、稲作技術が大陸より倭国に伝わり、河川沿いの湿地で水田による稲作が
はじまり、その後用水溝などの治水技術が向上してからは、次第に丘陵地帯にまで水
田が出来るようになり、遺跡の分布も拡大していきました。
近郊の新宮町、福間町、津屋崎町などでも同じような傾向で、遺跡が発掘されており
、古賀市よりさらに多いようです。
この頃には石器・土器だけでなく、青銅器の道具も造られるようになり、工事などの
効率は非常に良くなったはずですが、一方では銅剣や銅矛などの武器もできるように
なり、小国家(首長)間の争いが頻発して、倭国の大乱と呼ばれる時代が続き、卑弥
呼が女王についてから争いが収まったとされています。
古賀市がこの大乱にどのように関わったかは解りませんが、その中の最小国ですから
、大きな犠牲を払ったとは思えません。
弥生時代の倭国には、まったく文書記録がないので、倭国人は誰も文字が読めなかっ
たかという疑問がありますが、すでに漢国や魏国と交流をしている訳ですから、少し
は読める人物がいた筈です。このような観点からの研究が最近九州大学で始まってい
ます。
以上

著者:絵歴Talk-2000(gfujino@yahoo.co.jp)
頁作成:櫻井裕子(yukos@land.linkclub.or.jp)