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絵歴Talk2000 さんの新古賀歴史探訪

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『その2』筑紫の君「磐井氏」と古賀

    古墳時代(250〜500)


弥生時代の墓は、石棺、木棺、かめ棺などを用いた墓や、支石墓などの形態がありま
すが、ほとんど共同墓地でした。北九州ではかめ棺や支石墓が多く、大陸や半島の影
響をうけて、鏡、玉、剣などの副葬品をいれる習慣がすでに見られて、糸島の三雲遺
跡などでは大量の副葬品が発見されています。

古賀市でも、古墳としては150個位発見され、200個位あると推定されています
が、これほど立派な副葬品は見つかっていないようです。
前章の魏志倭人伝の頃は、弥生後期とよばれ、弥生時代から古墳時代に移行しはじめ
て、墓が次第に大きくなりかけていました。卑弥呼が死亡したときは、その埋葬に、
直径百歩の塚が築かれ、百余人の女性が殉死したと書かれています。

その後中国大陸では、265年に司馬氏が魏を滅ぼして、晋が成立しますが、「晋書
」に倭国の使者が266年にきたという記録を最後に、約150年間、倭国に関する
記事が史書から姿を消します。中国も分裂・動乱の時代に入ったのが原因です。
したがって魏志倭人伝に書かれた倭国の首長国群がどのように変化したかは不明で、
4世紀〜5世紀の古代史はブラックボックスだと言われています。

私のような戦中派は、神武天皇以来万世一系の皇国史を叩きこまれたのですが、8世
紀に書かれた古事記や日本書記には多くの矛盾があり、戦後の歴史は大きく書き換え
られました。ここでは弥生時代までは100位の「首長国」、古墳時代では3〜5の
「大王国」、飛鳥時代後半から「天皇国家」にほぼ統一されたものと考えて記載します。
4世紀頃には、平野部から丘陵や山頂に墓が造られるようになり、共同墓地から分離
して墳丘が造られ、祭祀用の土器など置かれるようになります。

これは九州、瀬戸内、近畿などの首長の権威が大きくなり、その連合や統一が進んで
、北九州、吉備、近畿の3地域位の「大王国」に纏まったことを示しています。
近畿までを倭国とよび、これより東や北を日下(クサカ)、または日の本(ヒノモト
)と呼んだという説もあります。

近畿の勢力は、北九州の勢力が東上して近畿を征服したという説と、近畿勢力は独自
に成長したという説があり、結論は出ていないままです。
この間に稲作技術が西から東へと普及したこと、青銅器からさらに鉄器の技術が伝わ
ったこと、多数の渡来民族が渡ってきたことなど大きな変化があり、この時代を古墳
時代と呼んでいますが、北部九州がその入り口として大きな役割を果たしたことは確
かです。

5世紀の北部九州には、筑紫の君と言われる「磐井氏」が、いまの筑後平野を中心に
、九州の大王的勢力を確立していたと思われます。
 磐井氏は新羅系の渡来民族で、早くから筑後の八女を本拠地して、粕屋あたりまで
支配していました。筑紫の白木原(シラキバル)という地名も、この新羅系民族の集
落を意味していたようです。磐井氏は八女の岩戸山古墳にみられるように、装飾文と
石人石馬をもつ独特の古墳を築き、新羅との交流を活発に展開していました。それに
は粕屋の香椎潟を基地の湊としていたようで、わが古賀市も、磐井氏の勢力下にあっ
たことは確かです。

 一方近畿の大王は、任那や百済系の渡来民族で、大王崇神を中心に大集団で渡来し
てきたとされています。大王仲哀の頃までは北九州を中心に活躍していましたが、大
王応神、仁徳の頃に東征して、近畿(最初は河内、やがて飛鳥)に本拠地を移してい
ますので、磐井氏とは対立関係にあったことが想像されます。
両者の激突がつぎの世紀のはじめに起こって、統一国家へと進んでいきます。

磐井の岩戸山古墳の石人・石馬
磐井の岩戸山古墳の石人・石馬

磐井の石人
磐井の石人

著者:絵歴Talk-2000(gfujino@yahoo.co.jp)
頁作成:櫻井裕子(yukos@land.linkclub.or.jp)