[古賀の歴史][ホーム]

絵歴Talk2000 さんの新古賀歴史探訪

-----

『その3』磐井の乱および聖徳太子と古賀

   飛鳥時代(500〜700)

(磐井の乱)
 近畿の大王は一貫して任那や百済を支援して、何回か援軍の派遣を行いますが、朝
鮮半島では次第に高句麗や新羅が勢力を増大してきました。その情勢を良く知ってい
た磐井氏は、近畿の大王が527年に百済に援軍を派遣することに反対して、近畿の
大王と戦います。いわゆる「磐井の乱」で、倭国内での最大の戦いとなります。

近畿勢は、物部氏を中心とした軍勢を北部九州に派遣し、2年近くの争いの末、52
8に磐井軍を屈服させます。粕屋地域が戦場となったか否かは不明ですが、磐井氏側
は降伏のしるしに、筑紫の粕屋の地を近畿の大王に屯倉(ミヤケ)として献上します
。(屯倉とはこの頃から、大王の直轄地として設定し、側近の首長らに管理させる領
地をさしたもので、その後穂波の屯倉、鎌の屯倉などが設けられます。)

これは後の8世紀に出された日本書紀にも記載されているので、当時の磐井氏が粕屋
地域を領有していて、香椎潟の良港を基地として新羅との交流に活用していたことを
示します。それを近畿の大王が提供させて、百済救援の軍事基地にしようとしたこと
の裏付けになります。
ここでわれわれの古賀市も、地元磐井氏の傘下から、近畿の勢力下に大きく変化する
ことになります。

(物部氏)
粕屋地域を、近畿の大王は戦果を上げた物部氏に管理させることにします。物部氏は
大王崇神と共に渡来してきた氏族であり、その職業は荘園を守る武士集団のようなも
のでした。磐井の乱でも戦闘部隊としてよく戦っておりますが、かって九州に渡来し
て近畿へ移住してからは、主に西日本地区に在住したようです。(東日本地区には大
伴氏が在住したとされています。)
奈良盆地内部に在住したものを内物部、その外に在住したものを外物部と呼んでいま
す。物部連(ムラジ)は八十連もあったといわれ、グループ間の連携はそれほど強い
ものではなかったようです。磐井より献上された粕屋の屯倉は、外物部のなかの物部
一族で「舂米(ツキシネ)連」の領地となります。

(舂米連)
一族は摂津より下ってきて現在の古賀市花鶴団地・鹿部山公園付近に居住して、糟屋
の屯倉(ミヤケ)の農場の管理を行ったようです。名称から察すると農業を得意とし
た集団のようです。
 内物部氏は近畿の大王にたいして忠実で保守的な部下だったようで、後に急激に勢
力拡大をしてきた蘇我氏と対立して、552年頃から仏教導入をめぐって争ったこと
は有名です。そして近畿の大王は、一応統一国家形成への道を進み、歴史的には「飛
鳥時代」と呼ばれるようになりますが、まだ王位継承などをめぐりクーデター事件が
何回か発生して、安定した部民制や国造制などの確立は、700年以降になります。

(聖徳太子の誕生)
さて古賀市と縁の深い聖徳太子の生誕は574年であり、丁度蘇我馬子が大臣に、物
部守屋が大連になった2年あとです。蘇我氏が寺を建てれば、物部氏が焼き払うよう
な対立の最中に、飛鳥の地で生まれたというのが定説です。その生誕地のあとに橘寺
が建立されています。
聖徳太子家は上宮法王家と呼ばれ、その家紋は「橘」であることを今年春の現地訪問
ではじめて知りました。橘寺の基礎石にも橘の形が彫り込まれていたので、粕屋の橘
(立花)の地名との縁を深く感じました。またその西側に二上山がのぞまれ、粕屋の
立花山も昔は二神山と呼ばれていたのを思い出しました。
太子が神童であり、幼くしてお経を良く読んだなどの定説はそのまま信じることにし
ます。したがって仏教導入の推進をはかる蘇我氏にとっては、味方に取り入れたい人
物だったでしょう。
蘇我氏と物部氏の争いが激しくなり、遂に蘇我馬子が物部守屋を討ったのが、587
年で太子が13才の時です。一説には太子もこの戦いに参加したと言われていますが
、まだ戦力にはならなかった筈です。
これでヤマト政権は一応蘇我氏の独占体制となり、西日本各地の外物部もかなり粛正
をうけたことは当然です。蘇我氏は粕屋の物部「舂米連」の領地を没収して、これを
聖徳太子の所領にし、太子を完全に味方に引き込む作戦をとりました。

聖徳太子生誕地の橘寺
聖徳太子生誕地の橘寺

基礎石には橘マーク
基礎石には橘マーク

(聖母屋敷)
しかし聖徳太子はこの領地を、そのまま「舂米連」に以前のまま管理に当たらせまし
た。彼らは大いに感謝して、聖徳太子の記念館を糟屋に建設したと想像され、これが
古賀市の小山田斉宮近くの「聖母屋敷跡」の由来と考えられます。また「聖母屋敷」
と名付けたのは、あとで述べるように太子の乳部(チチブ)となったためと思われま
す。「聖母屋敷跡」は古賀から少し南方の久山ゴルフ場近くにもあるようで、二、三
カ所に公民館のような役割の建物を造ったのでしょう。古賀市の聖母屋敷跡の地形は
、飛鳥の石舞台古墳のある場所によく似ていて、山の裾野のゆるやかな傾斜地を一部
平らにした場所です。 

聖母屋敷跡の風景
聖母屋敷跡の風景

聖母屋敷と類似の屋根
聖母屋敷と類似の屋根

(播磨の斑鳩寺)
聖徳太子はその後593年に、推古天皇より播磨の地に三百町の領地をもらっていま
す。これは仏典の布教に太子の功績が大きかったことの褒美として与えられたと言わ
れています。現在姫路市の西側にある太子町は、人口四万人弱の静かな町で、平野の
中に小山が点在する風景は、去年訪問したときに何となく古賀市の郊外に似ていると
感じました。太子は三百町の半分に斑鳩寺を建立し、あとの半分は奈良の法隆寺の建
立運用経費にまわしたとされています。
この時期は丁度蘇我馬子が天皇崇峻を暗殺し、その後に天皇推古が即位された直後の
ことです。前の物部守屋を討った時と類似した恩賞なので、私には背後に蘇我の計略
が見えかくれしているように思えます。
またこの地方には、大陸から呼び寄せた僧侶たちが、奈良に入る前に立ち寄ったとか
、一時物部氏の迫害・追放にあった僧侶たちがこの地に逃れれていたとかで、仏教に
縁の多かった地域のようです。筑紫と奈良の中継点の一つとして重要な場所だと思い
ました。

播磨の斑鳩寺
播磨の斑鳩寺


(聖徳太子の家族) 
 上宮法王家の系図を調べると、聖徳太子は父方・母方ともに蘇我氏の血統をひいた
最初の皇子です。聖徳太子の妃は四人乃至五人存在していたようですが、その中で第
一妃となったのは蘇我馬子の娘です。太子が推古天皇の摂政になり、蘇我氏の政権運
営のための象徴的存在となった背景には、蘇我氏との血のつながりが濃く関係してい
ます。この馬子の娘との間に生まれたのが嫡子の山背大兄王です。
第二妃は膳部臣の娘で、この間にうまれたのが舂米王女です。そしてこの二人の異母
兄妹が結婚し、六、七人の子供をもうけています。当時は異母兄弟姉妹の結婚は普通
のことでした。最近の動物実験では、一、二代には異常がでるが、数代続けるとかえ
って優秀な子が生まれることが解ったようです。
また第二妃と太子との結婚の時期は第一妃より早かったようです。その他、天皇敏達
・推古の子や孫とも婚姻関係があり、古代の家庭構成は非常に複雑です。

(舂米王女)
さて筑紫の粕屋とゆかりが深いのは、第二妃(膳部臣の娘)との間に生まれた舂米女
王です。膳部氏は奈良の竜田川付近に居住していた豪族のようですが、資料はとぼし
くあまり強力な豪族ではなく、王廷内の供応役をつとめていたのかも知れません。太
子は第二妃との間に八人の子があり、その長女に粕屋の物部連の名前をとって、「舂
米(ツキシネ)女王」と名付けました。文字は別として、発音がなんとなく筑紫に似
ているように思えます。またこのように名付けられたのは、太子や第二妃が粕屋の舂
米連と深い親近感をもった交流をしていたためと思われます。
これは後で述べるように、ヤマトと粕屋の交流が頻繁に行われていた証拠であり、そ
の結果この舂米王女の養育費用を粕屋の屯倉に負担してもらことになりました。この
ような制度を「乳部(チチブ)」と称していたので、粕屋の一部に乳部という地名が
つけられ、これが現在の鹿部(シシブ)として残っていると言われています。埼玉県
の秩父も同じような歴史がありそうです。また母という字は女から乳が出ている状態
を示す象形文字ですから、聖母屋敷と名付けられたと考えられます。 

(達頭(タルドウ)の活躍)
 聖徳太子の仏教上の師は、高句麗出身の僧侶「慧慈」であったことは良く知られて
いますが、武術の師として「達頭」の存在はあまり知られていません。
私が見つけた文献では、達頭は蒙古から高句麗経由で渡来してきた武将で、大陸での
内戦に敗れて六百年頃に筑紫に上陸して、聖母屋敷あたりに滞在する間に春米連と接
触し、ここで大和の情勢をきいて播磨の斑鳩寺をへて大和に入り、聖徳太子の武術師
範となったようです。太子は一米八十近い大男であり、奈良盆地の斑鳩と飛鳥の間約
20キロを毎日乗馬で通ったといわれていますが、達頭も大男で馬術の名人であった
ことから、太子の武術指南や影武者的役割をしていたと思われます。このため太子が
渡来人であったなどの説がでているのでしょう。
また達頭は大和と筑紫の粕屋との間を頻繁に往来して、舂米連や大陸との情報交換や
渡来人の世話などを活発に行ったようです。611年には百済の聖明王の王子が渡来
しており、周防(山口)に定着して後の大内氏になっていますから、この時代は達頭
のような小グループの有能な渡来人が結構多かったようです。

(聖徳太子の政治)
さて聖徳太子が摂政として行った歴史上の大きな仕事は、602年の新羅征伐計画、
604年の十七条憲法、及び607年の遣隋使(小野妹子)の派遣です。602年に
新羅討伐の兵を送ることになり、聖徳太子は弟の来目皇子をリーダーとして筑紫まで
兵をすすめています。この時は達頭が軍隊の参謀として大いに活躍し、また筑紫の粕
屋が兵担基地となります。しかしリーダーの来目皇子が筑紫で病死されたため、60
3年に新羅への出兵は中止されます。
607年の小野妹子も当然筑紫経由で隋に派遣されていますから、聖徳太子と筑紫の
粕屋の間には盛んな交流があったと思われます。ただ太子本人は播磨や道後まで下っ
たという記録はあるようですが、筑紫まで来られたかは不明です。
その後は聖徳太子と蘇我氏乃至ヤマト王朝との間に、大陸政策などで隙間ができて、
太子は斑鳩宮に引退し、仏教の普及一筋に専念するようになります。大陸で随が滅び
て唐になり、新羅が力をつけるなど国際情勢が大きく変化したのが原因の一つでしょう。

(上宮法王家の供養塔)
622年に第二妃と太子は一日違いで亡くなります。そのあと642年には、山背大
兄王をはじめ上宮法王家全員が蘇我氏により討ち倒されたことは衆知の通りです。聖
徳太子夫妻の墓地は河内飛鳥にあり、お寺は橘寺、飛鳥寺、法隆寺、元興寺などゆか
りの各地に存在します。また太子像が祭られているお寺は数え切れないほどあります
。古賀市付近のお寺にも幾つか存在すると思われます。
筑紫の粕屋でもこの悲報がつたわり、物部舂米連も悲しみのあまり幾つかの供養塚や
供養経を残しています。聖母屋敷跡の近くから発見された「十三仏碑一字一石経塚」
や、鹿部山で発見された「鋳銅製経筒」などがあり、太宰府観世音寺の高僧であった
良意の文字などが残されています。
これらが発掘された鹿部山公園を、現在の単なる展望公園でなく、市の歴史公園にし
ようと言う運動を長崎初男先生が起こされて、署名を集めて市長に提出されていると
ころです。私も大いに応援していくつもりですが、すでに市長もこの主旨には賛同さ
れて、くわしく学術調査をおこなった上で実行するようですから、近く実現出来ると
思っています。

小山田斉宮と長崎先生
小山田斉宮と長崎先生

鹿部山経筒
鹿部山

(補足)
その後発見した資料では、聖徳太子が粕屋で生まれたという説がありました。粕屋に
犬鳴連山があり、これから流れ出る犬鳴川の沿線に竹原古墳があって、その壁画(装
飾古墳)には舟に乗った馬の絵が描かれています。これは大陸からの騎馬民族が渡来
して、騎馬の陸揚げを行っていた場所であったことを意味しています。
粕屋にはその騎馬の厩戸(ウマヤド)がならび、馬の嘶く声が連山に響き渡っていた
ので、イナナキ山と呼ばれたのが、今の犬鳴山のおこりとされています。
聖徳太子が厩戸の前で生まれので、厩戸王子と呼ばれた事は有名ですが、その厩戸は
粕屋のものであるという説です。これには少し解説を必要とします。
大和朝廷の成立は前に述べたように、天皇応神・仁徳の頃に東征して成立したとされ
ていますが、この説では、天皇欽明の頃に東征したとしています。詳しい論証の内容
は省略しまが、天皇欽明以降もしばらく新羅を討つために、近畿の大王は何回も筑紫
の粕屋に西下して滞在したり、また新羅を討たずに東に引き揚げたりしたことが日本
書記に記載されています。
従って天皇欽明の娘である聖徳太子の母も、一緒に巡航か里帰りで粕屋に来ていたと
きに、たまたま厩戸の前で太子が生まれたらしいと言う説です。
この説をとれば、筑紫・粕屋と聖徳太子の関係はもっと深い繋がりがあることになり
、具体的な遺跡や文書が残っていてもおかしくないと思えます。今後の調査課題とし
たいと思います。

著者:絵歴Talk-2000(gfujino@yahoo.co.jp)
頁作成:櫻井裕子(yukos@land.linkclub.or.jp)