絵歴Talk2000 さんの新古賀歴史探訪

『その4』藤原広嗣と古賀
奈良時代(700〜800)
飛鳥時代の後期には、近畿大王の世界では、大きな事件が続発します。大化のクーデ
ター(645)、百済救援軍の大敗(663の白村江海戦)、壬申の乱(672)、
藤原京へ遷都(694)、平城京へ遷都(710)などです。
政治の中心が飛鳥から奈良に移行したので、奈良時代と呼ばれるようになります。
近畿の大王は、天武の時代に国家体制の整備がほぼ出来上がり、689年の浄御原令
により、「倭」にかわる国号「日本」、「大王」にかわる王の称号「天皇」、さらに
皇后、皇太子などの制度を定めました。また天皇をささえる氏族としては、藤原鎌足
、その子不比等、さらにその四子が活躍しました。
この間に九州北部での変化は、698年に筑前国の名前がはじめて見え、701年に
太宰府の官制が定まります。(初期は大宰府、のちに太宰府となりますが、統一して
太宰府と書きます。)
白村江の敗戦のあとでは、筑紫地区に水城が築かれたり狼煙台が設置されたり、また
防人の制度ができて関東からの武士が大勢九州に配備されたりして、国防上の重要拠
点となり、また九州の内政の拠点として、太宰府の責任者「太宰師や太宰大弐」には
大きな権限が与えられました。しかし懸念された大陸からの侵略はなく、直接筑紫・
粕屋・古賀地区に関連した歴史的事件はしばらく発生していないようです。
律令官制度などが敷かれて、田地の管理や納税の方法などが、逐次定まっていったこ
とは、後で触れます。
奈良の都以外では、「天下一の都会」と歌われた太宰府ですが、都で平和に過ごして
きた貴族からみれば「遠の朝廷」と思われ、師や大弐の地位は高く、任を終えると、
大納言や参議という太政官の中枢部に返り咲くことが出来ましたが、実際の人事では
中央政界の争いに敗れて、左遷される例が見られるようになります。
藤原一族内部の争いで敗れて、太宰少弐に左遷されてきた藤原広嗣もその例です。中
央の腐敗に不満をもっていた広嗣は、740年に政府の失政を糾弾して九州の軍団を
動員して反旗を掲げ、702年の大伴旅人の軍により制圧されて反感をもっていた隼
人グループを味方につけて反乱を起こします。
軍事と内政の大きな権限をベースにしていましたので、かっての「磐井の乱」に次ぐ
、大きな九州独立戦争ともいわれています。
近畿の朝廷は一万七千の軍勢を動員して鎮圧に向かいます。藤原広嗣は「三道狭撃作
戦」をたて、一万五千の兵を、鞍手道、田川道、豊後道にそれぞれ約五千に分けて、
近畿軍の動向をさぐりながら東進します。これは奈良時代の北九州地区の交通ルート
を知るうえで、非常に参考にになる作戦です。そして古賀市のなかでもっとも古い地
名「席内」が登場し、わが郷土を広嗣の軍隊が通過したことがわかります。
即ち主力の鞍手道の軍隊は広嗣が直接指揮をして、太宰府から阿恵(夷守)、香椎(
美野)、古賀(席打)経由で鞍手を通り、さらに遠賀川の島門村(今の島津付近)で
河をわたり、到津(板櫃)の鎮所に入ります。したがって各通過地区の配置軍や住民
は何らかの形で参加や協力を要請されたと思います。
田川道軍は多胡麻呂が指揮をして、太宰府から嘉穂郡内の伏見、綱別の古駅を経由し
て田川郡の香春採銅所横を北上し、小倉南区に入り、到津鎮所で広嗣と合流します。
豊後道軍は、広嗣の弟綱手が指揮をして、太宰府から筑後川の北岸沿いに朝倉郡を通
り、日田、玖珠経由の久大線ルートで大分に出て、日豊線ルートで北上し、行橋(京
都)の鎮所に入り、門司(杜崎)に上陸した官軍を挟み打ちする体制をとります。
古代の官道

小倉の到津が最大の戦場になりますが、隼人グループの投降や裏切りなどにより、官
軍が優勢となり、敗走した広嗣は、太宰府の役所や寺社を焼き払い、朝鮮半島の新羅
に亡命しようとしますが、運悪く逆風にあって吹き返され、五島列島の宇久島で捕ら
えられて斬殺されます。
三ヶ月位で反乱軍は鎮圧されますので、粕屋地区にも何らかの影響があったと思われ
ますが、はっきりしたことは解っていません。政府軍ともいうべき九州配置の軍団の
鎮長、営兵はきびしく処分されましたが、地元の郡司の兵には宥和的に投降をすすめ、
解放したといわれています。
この反乱にこりた朝廷は、政治と軍事に大きな権限を持つ太宰府を一旦廃止します。
しかし対外関係の対処に必要な部署として754年に再開し、当時の政界第一人者の
橘諸兄が太宰師を兼任します。
当時の粕屋郡の郡司は、香椎宮の宮司「膳伴宿禰」で、近畿の朝廷に近く、太宰府と
は密接な連携のもとに、朝廷の行政を支えたと思われます。
古賀市の「庄」あたりの田地は、奈良時代から存在したと言われています。この頃の
「班田収授の法」の概要は以下の通りです。6年毎につくられる戸籍に従い、6才以
上の公民の男子に2反、女子にその2/3が与えられ、家人その他にはさらに1/3の
口分田が与えられました。さらに方形の地割りを基礎に田地を整然と区画した条里制
が実施され、「公私その利を共にす」とされる「無主」の地として共同利用されまし
た。租税は古くは天皇の食料にあてる官田、神社や寺院に与えられる神田・寺田をの
ぞいて、収穫の3%位が賦課されたようです。
「庄」にも神田や御供田、極田などの字名があり、質の良い米がとれる場所のようで
す。この田地の管理は厳重に行われ、樫の木や柵で囲われて、近くに庄屋や地頭の家
があり、物見櫓がたてられました。後にこの中を「堀の内」とか「土居」とよぶよう
になったようです。現在もその並木が残っている所があります。そんな歴史を知って
眺めると、平凡な田園風景も輝いて見えてきます。
庄の田地(堀の内)

また「延喜式」に出てくる「席打駅」はもっとも古い地名で、その後「倭名抄」では
、「席内」になり、さらに筵打、筵内などに変化します。奈良時代の粕屋郡には席打
と夷守(いまの大字阿恵)の2駅で、席打から香椎、八田、内橋をへて夷守にでたよ
うです。これより太宰府に出るには、別府、席田を通るルートと、仲原、南里、宇美
を通るルートがあったと思われます。
「むしろ」は綿のない時代には貴重品であり、筑前国の税金(御調物)の対象にもな
っていたことが、延喜式に記載されているようです。
大宰府政庁跡