絵歴Talk2000 さんの新古賀歴史探訪

『その5』最澄・道真・宗任と古賀
平安時代:初期;中期(800〜1000)
(最澄)
奈良時代には仏教が大きな国策として取り入れられ、近畿を中心に大仏の造営や大寺
院の建設が活発に行われたり、地方に国分寺が建設されたりしました。
しかし当時の仏教は貴族中心の仏教であり、優遇された僧侶達の腐敗も起こりはじめ
ました。道教などがその代表的な例です。これに疑問をもつ若手僧侶として、最澄や
空海が登場し、仏教界の革新がはじまります。近畿朝廷も心機一転のため、奈良盆地
を脱出して、794年に京都の平安京に移り、平安時代と呼ばれるようになります。
最澄(伝教大師)は、僧侶としての修行を積んだあと、804年9月1日に、第16
回遣唐船4隻のうち、第2船に乗船して、肥前田浦港を出帆しました。第1船には空
海(弘法大師)も乗船していました。最澄らの船は明州につき、福州についた空海ら
と長安で落ち合っています。その後最澄は天台山を訪れ、天台宗中興の祖湛然らの教
えを受けて、在唐8月半で帰途につきました。
寄港の予定地は博多であったのですが、嵐のため古賀の花鶴浦に吹き上げられ、ここ
で上陸したので、古賀市との縁が出来ました。(805年6月)
最澄はこの地での布教を祈念して、手にしていた独鈷を立花山の方に天空高く投げま
した。翌日山から下りてきた猟師の源四郎と出会った最澄が、「何か異変はなかった
か」と尋ねると、源四郎は「一片の火玉のようなものが落ちてきて、山谷が鳴動した
ので観音様にお祈りしながら山から下りてきた」と答えました。
最澄はその場所に案内してもらい、独鈷が立っているのを確かめ、「この地こそ我が
願いの霊地」として、独鈷寺を建立しました。
そして源四郎にあつく礼を言い、唐より持ち帰った毘沙門天の像と火種を与え、家の
造りが頑丈なので、「岩家の横大路」という称号を名乗らせました。
火種を与えたのは、比叡山に帰り着くまでの予備の火という意味と、横大寺家に子孫
が絶えずに繁栄するようにとの意味を含めたということです。
横大路家はその後46代にわたり養子をとることなく子孫が続いているそうで、また
比叡山が信長の焼き討ちで、根本中堂の火種が絶えた時、延暦寺から横大路家まで再
度火種をもらいにきたということです。
いまでは1200年も経過し、いつしか「岩家」というより「千年家」と呼ばれるよ
うになり、昭和56年に国の指定文化財になってた時、屋根裏だけを改装されました
が、老朽化が激しくなったので、今年の秋に全面的に建て替えられる予定だそうです。
行政的には新宮町の史跡になっていますが、古賀の花鶴海岸も関係深い場所です。
横大路家(千年家)

横大路家の女主人

近畿に帰った最澄は、桓武の朝廷により、天台宗を立てることを公認されますが、一
切の衆生は皆仏性を持っていること(一切衆生悉有仏性)を説き、階級意識の強かっ
た既存の宗派と対立し、その死後にやっと比叡山の延暦寺が自立した教団として、実
現します。
空海も若い頃は遍歴の修行僧として全国をまわり、古賀の大根川での伝説などもあり
ますが、真偽は定かでないようです。
また古賀市で天台宗のお寺としては、清滝寺があります。寺伝説話によると、奈良時
代の6人の高僧の一人「行基」が諸国行脚しているとき、清滝の山水に霊感を覚えて
石像の不動尊を安置したのが創設のはじめで、724年のこととされています。従っ
て最澄より80年も前のことになり疑問とする説もあります。しかし別に「基延」と
いう僧により、天平年間(729〜749)に中興されたという記事もあり、奈良時
代からの古い寺ということは確かなようです。
寺の建設を支援したのは、この地の地頭であった丹治式部(のちの薦野氏)というこ
とで、800年以降に完成したものと思われ、この頃天台宗との縁が出来たのでしょう。
清滝の川土手の桜
(道真)
平安京の建設当時は、朝廷にとっては東北の軍事が大きな問題で、征夷大将軍坂上田
村麻呂による数次の戦が行われました。その後平和がもどると、藤原氏を中心とする
摂政が進み、太政大臣の上に「関白」をもうけて、天皇の代わりの詔を発する例まで
起こりました。
橘氏や菅原氏などの対抗派も逐次押えられて、藤原氏の天下になり、901年に菅原
道真が太宰府に左遷された事件は良く知られています。
道真を乗せた船が、関門海峡をすぎて玄海灘に向かい、大島の沖を通過した頃から沖
合に黒い雲がみえはじめ、古賀の海の沖までくるとすごい嵐となりました。
近くにいた漁船の後を追って津屋崎の湊に緊急避難をして、一夜を過ごされました。
翌日漁師たちから簑笠を譲り受けて無事に博多の湊に到着されました。津屋崎の「簑
笠天満宮」はこの事を記念に建てられたと言われています。
無事博多の湊に到着されて、上陸する前に水鏡で自分の姿を整えられた場所にあるの
が、福岡市アクロス前の「水鏡天満宮」で、ご座所の敷物として地元の漁師が綱を輪
にして差し上げた場所が、いまの「綱敷天神」(綱場町)と言われています。福岡市
の中心が天神町と呼ばれるのも、菅原道真の縁が強く残っています。
その他、武蔵寺参詣のおり自らの像を刻まれ、寺の境内に移遷安置されたのが筑紫野
市の「御自作天満宮」と言われています。
また一緒に太宰府にこられた二人の子、隈麻呂と紅姫の供養塔も筑紫野市と太宰府市
にあります。
道真の死後天変地異が多くおこり、道真の怨念のせいだと考えられて、京都では北野
天満宮、筑紫では太宰府天満宮が造られます。その他各地に天満宮や天神様がまつら
れます。天神社はもともとは雷などの天の神を祭る神社でしたが、天満宮と同列扱い
になりました。
天満宮信仰の内容は、はじめは道真の怨霊をおさめることから始まりましたが、次第
に道真が神格化されて、菅原家に天から現れた神童が養子になって神となり、さらに
学問・詩歌・芸能の神さまへと変化していきます。
古賀市にも川原天満宮、米多比天満宮、三郎天神などがあり、また普通の神社の中に
天神社を併せて祭っている所がいくつかあります。そして古賀市の駅前にも最近天神
の地名がつきました。
菅原道真公が直接古賀市に上陸された話は残って居ませんが、多くの信仰者があった
ことと、太宰府天満宮がその後道真公の子孫によって運営されますが、太宰府の地の
利を活かして、交易による富と人脈による天満宮チェーンの展開をはかり、各地に荘
園をつくり、観世音寺の荘園まで吸収合併するなど、大きな勢力となります。古賀地
区にも荘園などが出来ていたのではないかと思われます。
補足:太宰府の観世音寺の鐘と現在京都の妙心寺にある鐘は兄弟の鐘(同じ鋳型)で
あり、古賀の銅山で採掘された原料で鋳造されたもので、舂米連広国が698年頃寄
進したものが転々と移って妙心寺のものになったらしいということを、長崎初男先生
が発表されています。(一説では、久山の銅山とも言われています。)
川原天満宮

太宰府天満宮
道真の幼子の墓
御自作天満宮
観世音寺の収蔵庫・梵鐘
(宗任)
朝廷による東北の支配は、1051年に衣川から奥六郡を支配していた安倍頼良(の
ちの頼時)と貞任の父子が、国守の軍勢を撃破しためにぐずれ始めました。
安倍氏は陸奥国をおさえた上で、さらに北の津軽や下北と組んで、東北の独立姿勢を
打ち出しました。
朝廷からは河内源氏の源頼義が陸奥守として派遣され、一旦は妥協が成立しましたが
1056年に再度戦乱となり、前九年の役と呼ばれる長期戦の末、安倍父子の戦死で
やっと終結しました。
この時貞任の弟、宗任は、伊予経由で宗像の大島に流されます。大島では宗像氏の監
視下にあったはずですが、かっては鳥海三郎と謳われた武将ですから、宗像氏も共存
的待遇をおこなったのでしょう。
秋田県の和田家で見つかった文書の中に、「東日流(ツガル)外三郡誌」があり、宗
任が大島から陸奥の子供たちに送った手紙があります。「安倍家は今まで土地争いで
戦ってきたが、大島に来て海の世界を知り、安倍家も今後は海に生きることを考えよ
。」という内容の手紙で、大島から舟大工7人を陸奥に送ったようです。
結局宗任は大島で病死して、彼の墓も大島にありますが、妻の津和は相の島経由で、
壱岐の河野一族をたよって逃れます。
大島には津和の名前をつけた津和瀬という地名があり、ここから夜隠にまぎれて逃亡
に成功したそうです。宗任の幽霊がのった幻の船が先導して波を鎮め、追手の船を迷
走させてくれたと言い伝えられています。
その後宗像や粕屋に安倍氏の子孫が移住したようで、宗像氏のもとで活躍するように
なりました。
旦の原の團氏は安倍氏の子孫ともいわれ、かっては宗像の傘下から、薦野の傘下に変
わったようですから、安倍氏の子孫の分布も古賀まで広がったのは確かです。
久保の古賀東小学校の裏山にある安倍氏の墓もその一門のものといわれています。そ
のすぐ近くにある矢野氏の墓も、刻まれている系図をみると、この一門のようです。
東北は「みちのくに」で、遥かな別世界と思っていましたが、以外に近いところに関
連を発見出来ました。
安部一族の墓

矢野一族の墓
