[古賀の歴史][ホーム]

絵歴Talk2000 さんの新古賀歴史探訪

-----

『その6』平氏と古賀

   平安時代後期(1000〜1200)

前期・中期まで藤原氏を中心とした摂関政治が続いた平安時代も、後期にはしだいに
藤原氏の力が衰え、上皇による院政が行われたあと、末期には武士階級が急激に力を
発揮してきました。
その背景には、田地の公有を原則としてきた「班田制」は、新田開発などの生産性を
高めるのには都合が悪く、次第に土地の私有化を考慮した「荘園制」に移行してきた
ために、その管理をする武士階級が勢力を強めたことがあります。その代表が源氏・
平氏です。特に西日本では平氏が活躍しますが、古賀町誌には登場しません。そこで
平氏と古賀の縁を少し調べてみました。
平安後期には海上交通が次第に活性化して、近畿と九州を結ぶ瀬戸内航路、さらに九
州と大陸との外洋航路による交易が、大きな経済利益をもたらし始めます。したがっ
て、海民を従えた海の領主たちが次第に力を持つようになり、九州では東の宗像氏、
西の松浦党などが勢力を増大します。
中央では伊勢平氏の正盛が、鳥羽上皇に密着して西国の海上支配に力を注ぎ、その子
忠盛は播磨、伊勢、備前の国守を歴任し、さらに瀬戸内の海賊を捕獲するなどの功績
をあげます。1135年代には肥前で宋船との交易を行い、九州進出の足がかりをつ
くります。
その子清盛は、さらに太宰府支配を確実にするため、1158年に自ら望んで太宰大
弐となり、途絶えていた現地赴任を行ったようです。弟頼盛を現地に派遣したという
説もありますが、みずから博多湾内に人工的「袖の湊」の建設を指導して日宋貿易の
拠点にし、福原にも同じ工法の湊建設を行ったのですから、陣頭指揮で活躍して大き
な利益をあげることに努力したと思われます。

袖の湊の図
袖の湊の図

これをもとに清盛は九州管内に多くの所領を獲得し、筑前、筑後、豊前、肥後、薩摩
、壱岐などにその家人を配置しました。平盛俊の名前が筑前宗像荘・香椎荘の荘官と
して名が残っています。従って古賀もこの頃は平氏の支配下にあったと想像されます。
また地元の大族である大蔵氏の嫡流原田種直を家人化して、筑前糸島地方の原田荘を
本拠地とさせています。一方藤原一族の山鹿氏には、遠賀川流域の鞍手・嘉麻・穂波
などの荘園を管理させ、海上勢力の宗像氏や松浦党なども平氏の統制下に置きました。
1159年の平治の乱などをへて、清盛は1167年に太政大臣となり、「平家でな
いものは人間ではない」と言われるほどの強力な政権を樹立しますが、栄華をきわめ
た平氏一族は次第に貴族化していきます。
したがってその権力もそんなに長続きはしませんでした。源頼朝の挙兵と清盛の死去
により浮足だった平氏は、1183年に大軍を率いてきた木曽義仲によって京都を追
われて、清盛の娘徳子の生んだ幼い安徳天皇をつれて、一旦九州に入り太宰府に落ち
着きます。この時までは源氏の追討軍が九州に上陸できない位に、地元武将は平氏に
味方しました。そして九州勢の支援をえて平氏は軍勢を建て直し、一ノ谷・屋島まで
反撃にでます。
しかし源氏側に義経が加わり、その奇襲戦法で敗れた平氏は関門海峡で決戦を挑んだ
ことは衆知の通りです。

義経の八艘飛びの図
義経の八艘飛びの図

太宰府に留まっていた平氏の部隊は、子飼いの武将と思っていた菊池氏や緒方氏など
が、源氏側に寝返って太宰府を攻撃してきたことに驚きます。
浮羽郡田主丸でこれを迎え討った平氏軍(原田氏)は竹野の決戦で破れてしまい、平
氏軍は太宰府から箱崎、糟屋をへて、遠賀の山鹿氏をたよって逃走しました。当然古
賀地区も走り抜けたはずで、「平家物語」のいう通りであれば、裸足の殿上人がおり
からの冷雨にぬれねずみになって逃げ行く姿を村民は見たでしょう。
しかし遠賀の山鹿氏の軍には緒方軍が押し寄せる気配なので、平氏はさらに船で豊前
に出て、彦島を基地に地元軍に総動員をかけます。山鹿、宗像、松浦党などが平氏の
先頭にたって奮戦し、一時は源氏軍を圧倒気味でしたが、午後の潮流変化で情勢が反
転し、壇ノ浦の藻屑と消えたことはあまりにも有名です。
宗像の城山峠あたりには平家の落人の遺跡がありますが、古賀には具体的な足跡が残
って居ません。薦野氏はもと平家ではという説もあるようですが定かではありません。

太宰府天満宮と源平合戦

さて平安時代の末期には経塚の造営が流行しますが、これは源平の合戦などの戦乱が
続いたためでしょう。仏教も末世到来におびやかされて経典を地下に埋蔵し、百億年
後の弥勒菩薩による求世を期待する発想だったようで、日本独自のものです。平安貴
族に厭世的思想がおきていたのも流行を広めたかもしれません。経塚のはじめは近畿
の山地でしたが、北部九州の山地(英彦山など)でも多くの経筒が発見されており、
古賀の鹿部山からも立派な経筒が出土したことは前にも書きました。

鹿部山経筒

鎌倉幕府が出来てからは、九州は東国から派遣された守護・地頭による支配の社会体
制に入ります。

著者:絵歴Talk-2000(gfujino@yahoo.co.jp)
頁作成:櫻井裕子(yukos@land.linkclub.or.jp)