絵歴Talk2000 さんの新古賀歴史探訪

『その7』元寇・尊氏と古賀
鎌倉・南北朝時代(1200〜1400)
平氏が壇の浦に滅んだその日から、天下が源氏に変わったわけではありません。とく
に「平家王国」だった九州の支配には、源頼朝もずいぶん気をつかったようです。東
北の平泉で義経追討・藤原攻略などに勢力をつかったせいもありましょう。
頼朝は1185年に弟の範頼を九州に駐留させて、平氏に味方した豪族たちの領地没
収にあたらせましたが、いろんな事件がおきたので腹心の家人をつぎつぎに送りこみ
ました。
まず太宰府政庁に対しては、表面上は朝廷の行政権を尊重する建て前をとりながら、
守護と地頭を置くことを朝廷に認めさせて、鎮西奉行に天野、武藤、中原らの有能な
家人を任命して、次第に太宰府の権限に立ち入ります。
つぎに九州を三分割して、武藤資頼に筑前、豊前、肥前を、中原親能に筑後、豊後、
肥後を、島津忠久に薩摩、大隅、日向を治める守護職を与えて、九州三人衆が割拠す
る体制をつくります。
また平家が重視していた外国貿易には、はじめは干渉しない方針で、島津荘についた
唐船との貿易に、太宰府政庁が干渉したのを押さえたこともありました。したがって
博多津を筆頭に今津、宗像の神湊、江口、糟屋の新宮、香椎などには、唐船の出入り
が頻繁におこり、博多や箱崎には大陸系の僧侶や商人が定住して、民間貿易は最高潮
に達します。
古賀市近郊にこの繁栄がどの程度影響したかは不明ですが、恩恵はかなりあったと考
えられます。寺社などの建設や寄進などが活発に行われているので、詳細な調査を行
えばいろんな資料があると思われます。
平家と同じように短命に終わった源氏政権のあとを継いで北条氏の鎌倉幕府になりま
すが、この頃からついに幕府も御用貿易船「御分唐船」を仕立てて、通商を開始しす
るようになります。
繁栄の裏では寺社の権力争いや、商人間の暗闘があり、いくつかの事件の記録が残っ
ていますが、直接古賀市に関連するものは無いようです。しかしその間に大きな暗雲
が日本に忍び寄ってきます。
1267年に高麗経由で蒙古皇帝が日本との通好をもとめているという手紙が、とき
の鎮西奉行「太宰少弐武藤資能」にとどき、早速鎌倉へ飛脚をだします。幕府と朝廷
は協議を交わしますが、両者の意見はかみ合わず、半年ちかくもじらした上で、返事
を出さないという結論を使者につたえて返す始末でした。
1269年に再び使者がきますが、今回は朝廷が丁重な手紙を書いたにも関わらず、
幕府がにぎりつぶしてしまいます。こんな経緯があって、翌年には最後通告の使者「
趙良弼」をおくりますが、幕府は本土決戦を決意して防御の準備を鎮西の家人に出し
ます。
そしていよいよ1274年の文永の役、1281年の弘安の役と呼ばれる、2度にわ
たる蒙古軍の来襲です。対馬、壱岐、博多湾での戦いはあまりにも有名です。亀山上
皇の筆になる「敵国降伏」の額が箱崎八幡宮の楼門に掲げられます。
水城と元寇(文永の役)
参道は海に向かい、今でも博多山笠の「お塩取り」で有名ですが、その延長線上には
釜山の港があります。戦前の箱崎宮参道沿いに歴史館があり、その入り口に、蒙古の
大型船に向かって、小舟に乗って挑んでいく日本軍の動く模型があり、子供の頃の私
は感動して見た記憶があります。神国日本が「神風」により救われたと、太平洋戦争
中には言い伝えられましたが、真相はかなり異なるようです。
私はこの戦いは博多湾中心であったと思いこんでいましたが、調べてみると北部九州
の広い範囲に影響を及ぼしていました。
まず防衛のための元寇防塁ですが、博多湾内は石築地とよばれ、今津から香椎の海岸
まで、割石を砂丘の上に2メータ積み上げて築かれましたので、一部は現存して修復
・保存されています。しかしそれだけでなく、香椎から北東の黒崎までの50キロ以
上にわたって土塁が築かれます。古賀の海岸にも当然2メータの土塁が築かれました
が、土塁のため今はその明確な痕跡は残って居ません。
元寇防塁

つぎに参戦した武士は、筑前の少弐経資、景資の兄弟を大将として、秋月、原田、中
村、宗像、麻生、香月、山鹿などの武将が中心となり、さらに筑後や豊前、豊後、肥
前、肥後などの武将も当然参戦して、祖国の防衛に活躍しました。
その中で粕屋郡(古賀市)の武士薬王寺二郎は、その戦功により、神崎荘に田一町八
反、屋敷一カ所、畑一反余りをもらったという記録があります。戦功により恩賞地を
もらうのが当時の習慣です。内戦の場合は敗者の土地を没収して配分するのわけです
から問題ないのですが、外敵を撃退出来たからといって新たな土地が得られたわけで
はないので、幕府は非常に恩賞地不足に苦労します。そのなかでこれだけの恩賞にあ
ずかった薬王寺二郎の働きはどんな内容だったのでしょうか。とにかく古賀の海岸に
も土塁が造られ、古賀の武将が活躍したのですから、一般の住民も土塁造りに参加し
たり、竹槍戦の練習をしたり、大変な思いをしたことは間違いないでしょう。
その後も数年間は四季毎の4交代で、地元九州の武士団が海岸防衛の守りにつきまし
た。私の推測ですが、青柳の五所八幡宮、今在家の若八幡宮、新原の若八幡宮、久保
の若宮八幡宮は、海岸線に平行してほぼ一直線上に並んでいますので、古賀地区在番
の部隊が宿舎とした場所と関連があると思われます。八幡信仰は800年代よりはじ
まり、元寇のころが最高潮に達したようで、海運や海戦の神としてあがめられたよう
です。
元寇の海戦

(足利尊氏)
元寇が一つの原因となって1333年に鎌倉幕府は滅び、後醍醐天皇による建武新政
がはじまります。幕府打倒の中心となった武士たちは、北条政権にたいする不満から
立ち上がったのですが、後醍醐政権はその武士たちの功績を軽視して、足利尊氏を鎮
守府将軍に、護良親王を征夷大将軍に任じて諸国の武士を統率させ、腹心の貴族・武
士による専制的政治体制を進めます。
しかし尊氏と護良親王の反目、旧北条系武士の反乱などで、建武の新政は分裂と崩壊
の路をころがり落ちます。この混乱のなかで、新政に反意を示した尊氏は、一旦鎌倉
を占領しさらに京都に突入しますが、新田、楠木、北畠などの軍隊にやぶれて、兵庫
から船で九州に逃れ、再起をはかります。これは平氏が九州入りした時と同じパター
ンですが、平家王国を九州に築いていた平氏にくらべると、足利尊氏は九州と直接の
つながりは薄かったと思われます。
尊氏は周防の大内弘幸の提供した船で、関門海峡をへて筑前芦屋津に上陸しますが、
迎えたのは太宰少弐頼尚、大友、島津、宗像氏らのみで、肥後の菊池、阿蘇氏、筑後
の黒木、筑前の秋月、草野、三原氏、肥前の松浦党らは先手をとって太宰府有智山城
を攻略し、博多へ向かう体制を整えていました。
兵庫からの後続軍もつかず、武器や馬も不足の尊氏方にはかなりの動揺がありました
が、翌日とにかく宗像から糟屋(古賀)を通り、香椎宮に立ち寄って戦勝祈願をしま
した。当時出来たばかりの立花城に立ち寄って軍議を開いたという説もあります。香
椎から博多を見下ろす松崎の丘陵に到着したときには、多々良川の対岸には菊池・阿
蘇らの大軍がひしめいていたそうです。
1334年の多々良川合戦は「太平記」などに詳しく伝えられていて、尊氏軍は10
00騎、菊池軍は6万騎の数字通りとすれば、桶狭間のような地形でないかぎり、通
常では勝ち目のない戦場だったようです。
しかし北風が吹き、砂塵が菊池軍を悩ませたことと、筑前の武将や松浦党などの裏切
りが起こったことなどで、夕方には菊池軍は敗退し、尊氏の起死回生の大勝負が成功
します。その成功の裏には、少弐・大友・島津らの守護大名たちだけでなく、宗像氏
や寝返った筑前の武将たちの建武新政に対する不満があり、尊氏はそれを密かに読ん
でいたと思われます。
尊氏は朝敵の汚名をさけるため、事前に後醍醐天皇によって天皇位を追われていた光
巌上皇の院宣を獲得していたり、西走の途中に後醍醐天皇によって没収された武士た
ちの所領返還を保証する文書を発送していたりして、西国の武将の心を掴んでいたか
らこそ、多々良川合戦の勝利がありました。
この勢いで京都に向かった尊氏は、湊川の戦いで楠木正成を破り、光明天皇を立てて
政権を作りますが、朝廷は南北朝に対立し、幕府も室町幕府の二頭政治の時代となり
ます。中央の政権が二分しているように、九州の武将の間にも複雑な対立が続いてい
ました。
尊氏の勝利を支えた最大の功労者少弐頼尚は、尊氏に従軍して兵庫の湊川の戦でも抜
群の功をたてます。尊氏もかれの意見をしばしば取り入れて重用します。しかし2年
後に九州に帰ってみると、九州探題に一色範氏が赴任してきます。両者は九州におけ
る政治の主導権争いで早速対立します。その頃尊氏の弟、足利直冬が中国探題を追わ
れて九州に落ち延びてきたので、頼尚はすぐに直冬を味方にとりこんで勢力をかため
ます。
一方菊池軍は南朝方につき懐良親王を戴いて、足利幕府の探題を追放しようと兵をあ
げます。少弐頼尚はかっての敵「菊池」と組んで、探題の一色軍を攻め、遂に博多か
ら追い出してしまいます。(1352)
しかし昨日の敵はやはり敵であり、両者が残ってみると目障りで仕方がなかったよう
です。頼尚は次に豊後の大友氏と組んで菊池軍と戦います。
1361年7月に太宰府の南部で菊池軍と対陣した少弐頼尚は、この合戦に破れて宝
満山に逃れます。翌日菊池軍は少弐冬資、大友氏時らの主軍がいる古賀市の「青柳の
里」にむけて攻撃をはじめます。
遂に8月7日に青柳が戦場となり、冬資らは支えきれずに、宗像の西郷に退きます。
ここでも少弐党は敗退し、大友軍は豊後に逃げ帰り、少弐は芦屋に退いたと戦記に書
かれています。
古賀市内の地名「青柳」、「筵内」などが大きな戦場として歴史書に出てくるのはこ
の室町時代以降で、その最初の事例です。
室町時代後半より日本は動乱の時代となり、いわゆる「戦国時代」を迎えます。次ぎ
に「立花城」を中心として古賀の歴史をまとめて見ます。
鎌倉-戦国時代の宝満山