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絵歴Talk2000 さんの新古賀歴史探訪

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『その9』豊臣・徳川・黒田と古賀

   天下平定時代(1600〜1800)(秀吉の九州統一と博多復興) 1587年川内で島津義久が降伏し、九州統一を終えた秀吉は筑前箱崎に凱旋し箱崎宮を本営としたので、周辺の松原に諸将の陣屋が並び、境内は茶会や祝宴などで大いに賑わいました。その間廃墟と化していた博多の復興のため、黒田如水より新しい町割計画や、周辺地域に非難している商人の呼び戻しなど次々と指令が出されます。黒田如水は復興の総指揮を家臣の久野四兵衛に命じ、さらに地元大名立花宗茂の助けをかり、その家臣立花三河入道などが先頭に立って働きます。博多商人側では、かねて秀吉と親交のあった豪商の嶋井宗室と紙屋宗湛が活躍し、かっての富貴な自由都市の復元を目指します。織田信長が「堺」をアジアへの窓口にしたのに対して、秀吉は古来から実績のある「博多」の復活をはかりました。新しい博多に楽市楽座の制度をしいて商工の振興をはかり、武士の居住を認めず、博多商人の地租や賦役を免除して、商人の自由な活動を許しました。嶋井宗室や紙屋宗湛は朝鮮や大陸にも出かけたことのある商人で、商品の売買、倉庫・運送、人々の宿所を兼ねる総合商社的な業務を行っており、博多周辺の復興には大いに貢献しました。同じ年に、前節で述べたように小早川隆景は、新しい城を名島に築きましたので、その城下町の建設を嶋井宗室や紙屋宗湛に依頼します。しかし町人は博多に集まってしまって、2年たっても名島には商店が出来ずに混乱します。7年目にようやく城下町の体裁が出来たということですから、博多の優遇条件がいかに良かったかが解ります。この頃博多は九州一の大都市になります。この時秀吉は、のちの唐津街道経由で往来したようですが、青柳には明確な足跡が残っていないのが残念です。(文禄・慶長の役と唐津街道)博多が特別待遇を受けた背景には、5年後の朝鮮出兵計画があったかも知れません。その兵坦基地としての機能をもたせるために早急な復興を考えていたものと思われます。朝鮮出兵の前年に秀吉は嶋井宗室や紙屋宗湛らに、博多津の藏を全部空けて、兵糧米を蓄えるように命令します。例によって相場より高く買い上げる制度をもうけて九州一円の米を集めて、渡航する大名に米を貸す方式をとりますので、米の積み出し港としては博多津だけでは足りずに、近くの箱崎、新宮、津屋崎、鐘崎なども利用されました。古賀の米もかなり出荷されたと思いますが、新宮からであったか、津屋崎からであったでしょうか。さて秀吉の軍勢は1592年に京都に集結し、総兵力十五万八千人が新しい名護屋城に向かって進みます。今までの内戦と異なり、海外への進軍ですから、各軍隊の雰囲気を異なり、沿道で見送る観衆もどこか冷静さをもって眺めていたようです。行列の先頭は前田藩、二番手が徳川藩、三番手が佐々藩で、ここまでの出で立ちは従来見慣れた鎧甲でしたが、四番手の伊達藩の軍勢が現れると、沿道の群衆はどよめきの声をあげます。その武士団の甲冑の派手な色形に驚いたと言うことで、これから「伊達者」の名が全国にひろがります。九州で軍隊が進んだ街道は、殆ど唐津街道を往来したわけですから、古賀の街道筋でも、同じようなどよめきの声が聞こえたと思われます。唐津街道の詳細は後で触れますが、当時の街道の要所要所に、太閤水の井戸が掘られて、今も何カ所か残っています。新宮の太閤水は今でも名水として、道行く人がペットボトルに汲んで帰っています。

太閤水の図
太閤水の図

二回にわたる出兵は周知の通り大きな傷跡を残して撤退となり、秀吉の死により終止符が打たれます。しかし近世の天下人:信長、秀吉、家康の三人のなかで、筑前に最も大きな足跡を残したのは秀吉で、全国でも珍しく豊国神社が博多に残っていることからもその影響の大きかったことが伺えます。秀吉の死後、関ヶ原の戦で徳川側が大勝し、天下は徳川の時代となります。筑前の小早川は岡山に移封になり、後に黒田長政が藩主として入国します。立花宗茂は豊臣方についたため、一旦東北の大名に預けられますが、数年後柳川藩への復帰が認められました。彼の才能を見込んだ家康の英断ですが、信長時代であればこうはいかなかったでしょう。(徳川の鎖国と伊藤小左衛門親子)関ヶ原の戦のあと徳川氏の覇権が確立して、江戸幕府による全国支配が成立します。このなかで西国九州にもっとも影響の大きな政策は、幕府による鎖国制度の推進です。これは外国貿易を諸大名が行うことを禁止し、幕府が独占的にその利を得ようとするもので、決して貿易そのものの中止ではありませんでした。しかしこの影響をうけたのは博多を中心とする商人たちで、青柳出身といわれる豪商伊藤小左衛門一家に大きな繁栄と悲劇をもたらします。鎖国制度が確立するまでの経過をたどってみると、次のようになります。  1587 バテレン追放(秀吉)  1612 直轄領での禁教(家康)  1616 平戸・長崎に寄港地を制限(秀忠)  1624 スペイン船の来航禁止(家光)  1633 奉書船以外の海外渡航を禁止  1634 海外往来・通商の制限  1635 日本人の海外渡航・帰国を全面禁止  1639 ポルトガル船の来航を禁止  1641 オランダ商館を長崎(出島)に移す即ちキリスト教に対する警戒からスタートした海外往来の制限が、次第に幕府の独占貿易の体制に移行するのに約40年かけています。1607年に福岡城を築城した黒田長政は、当初は貿易振興を目指して商船の誘致政策を出しており、周辺の海上交通の要港として30港をあげて、破損船の修理や処置の「掟」を出しています。粕屋郡では、箱崎、奈多、新宮、花鶴、相の嶋が上げられています。また長政がキリスト教徒になったのも、海外貿易の情報ルートをつかむためだったと思われます。したがって当時の博多商人は、長政の政策の実行部隊として、朝鮮、中国大陸、琉球、東南アジアなどへの通商ルートをもち、活発に海外往来をしていました。嶋井宗室や紙屋宗湛はすでに隠居して自治会のリーダー役にまわり、大賀氏、瀬戸氏、末次氏など実力派になっています。伊藤小左衛門初代が青柳から博多に進出したのはこの頃です。博多は新入りの商人、大友くずれ、大内くずれなどの元士族、一旗組の農民などでにぎわっていました。小左衛門は末次宗得の娘と結婚し、幕臣の長崎代官・末次平蔵とも縁戚となって、博多から長崎まで進出します。もともと米商人であった伊藤家は、青柳や木屋瀬を拠点に米の売買、倉庫・流通、宿泊など総合化した商人となり、博多・長崎に屋敷をもって、黒田藩の長崎屋敷が出来るまでは、伊藤屋敷が事務所に使われるほど、藩の力になりました。その間、貿易船にたいする「投銀」で大きな利益をあげたといわれます。「投銀」とは貿易船の資金を無担保で提供するかわりに、商品などが無事につくと大きな金利(6ヶ月で約四割)をとるような金融制度で、昔のベニスの商人、最近のベンチャーキャピタルのような、ハイリスク・ハイリターンの商法です。二代目小左衛門の逸話として、長崎警備における活躍が残っています。福岡藩と佐賀藩は一年交代で長崎警備の御用を務めることになっており、当番の年には藩主を陣頭に一万七千の兵と船二百隻で出かけます。貿易禁止国の船が入港すると、焼き草を積んだ小舟で船を取り巻き、指令に従わないと火を放つという原始的方法で対応したようです。1647年黒田忠之(二代目)のとき、たまたま焼き草がない時期にポルトガル船二隻が入港し、スペインから独立したので通商の再開を求めてきました。防御の焼き草を国元から取り寄せるのに手間取っていたのを知り、小左衛門は長崎の稲佐の藁屋をまるごと買い取り、これを焼き草にして差し出したので、忠之は大いに喜び恩賞として50人扶持を与えたということです。その他糸割符、出雲の鉄売買、伊万里焼きの輸出、そして「伊藤小判」の鋳造など、活躍は広がる一方でありました。 1667年に、対馬の海商たちがひそかに武具を朝鮮に売りさばいていたことを訴えた下人があり、その審議から次第に伊藤小左衛門の名も浮かびあがったといわれています。すでに鎖国制度が確立されている時代ですから、当時の藩主光之(三代目)は一家全員に近い処刑を行いますが、これは全国でも珍しい厳しさで、のちに光之はこの処分が誤りであったと後悔したそうです。初代伊藤小左衛門の病死は1649年(70才)、二代目伊藤小左衛門の刑死は1667年(50才)でした。出身地の青柳での住居跡は明らかではありませんが、長崎初男先生は「いま船越孝氏がお住まいの家あたりではないか?」といわれています。この頃より博多の町は斜陽の時代となり、明治維新の頃には博多の人口は、九州で10位以下になっていました。(長崎街道)幕府による海外貿易の拠点が長崎に移されたので、小倉からの幹線は長崎街道の方に変わります。筑前入りした黒田如水と長政は、冷水峠の開削を計画し、東側の内野宿を大隈城主母里太兵衛と部下の内野左衛門らに、西側の山家宿を重臣の桐山丹波と部下の志方彦太郎らに命じます。その他原田宿、黒崎宿、木屋瀬宿、飯塚宿など、筑前六宿が整備されて、長崎街道が完成したのは1611年です。長崎街道の筑前六宿  黒崎---木屋瀬---飯塚---内野-(冷水峠)-山家---原田さらに唐津街道、朝倉街道なども整備され、筑前21宿と呼ばれる黒田藩内の交通網が完備するのは、まだ数十年後です。当時の主要街道の荷役運賃は幕府の認可制となっており、長崎街道は他の街道よりもかなり割高に設定されていて、長崎街道が幹線であったことが解ります。長崎から江戸までの大名行列は、通常50〜60名で90日かけて行くのが平均的な数字でした。従って参勤交代のための費用は交通費だけでも莫大なもので、江戸屋敷での費用などをいれると、各藩の総費用の6,7割を超えるようになり、江戸における消費経済の膨張で江戸の町は急激な繁栄への道をたどります。黒田藩では、3代あたりまでは、博多港から海路で大阪まで行っていましたが、藩政の逼迫以後は陸路(唐津街道)で小倉まで出るようになります。唐津街道については、伊能忠敬のところで詳しくふれます。長崎から江戸へ参府するオランダ人「ケンペル」の手記によると、冷水峠付近を「小丘、山嶽、森林など一帯の風光は、ドイツの山国の或る地方にそっくりだ」と述べています。また付近の女性を「村民みな美貌にして姿よく、その会話と動作の上品なるは、貴族の家庭の如し」とアジアで見た最高の女性に評価しています。

筑前六宿の図
筑前六宿の図

(黒田氏の菩提寺)   黒田氏は播磨の出身で、黒田官兵衛(如水)は、いち早く織田信長の成長を見込んで織田方につき、さらに豊臣方について戦ってきた武将です。九州攻めの先方として豊前に上陸し、宇都宮氏を滅ぼして中津12.5万石の城主になります。さらに島津征伐や博多復興に活躍しますが、関ヶ原の戦では、息子の長政が徳川方について大活躍をします。その恩賞で筑前52.3万石に大成長します。そこで父母子3人の宗教上の微妙な差が、3つの菩提寺を持つ結果になります。当時の武将は禅宗の信仰が多く、如水も中津時代から曹洞宗の信者で、中津の安国寺をそのまま博多に移し、中津の天翁全補和尚にも博多に移動してもらいます。和尚は博多(天神)の太湖山安国寺の壮大な伽藍の発展を祈って、弟子の腎雄文啓和尚に開祖を務めてもらい、自らは後見役となります。この寺に黒田家累代の墓があります。如水夫人照福院(長政の母)は、播磨時代から浄土宗の信者で、福岡城の完成まで安国寺に住まわせられますが、別途に浄土宗の菩提寺を希望し、照福山円応寺(大手門)を開きます。此処の和尚には播磨時代の黒田家菩提寺であった心光寺の住職が呼ばれます。真誉和尚は播磨の赤松氏の出身で、黒田家とは古くからの交流があったようです。急成長した長政は、藩内のブレーン不足を補うために、多くのの僧侶と交流をもち、平和な時代の行政上のアドバイスをとりいれます。そのなかで、52万石の格式にあった菩提寺をいろいろと選択し、栄西禅師を開祖とする臨済宗の聖福寺(室町時代の10刹の3位の官寺)を候補としますが、鄭重に断られます。これは甥が急死したときの葬儀でトラブルが起きたのが原因かと思われます。そこで同じ臨済宗で太宰府の崇福寺(太宰府横岳に665年建立)を菩提寺として博多に移して建立することにします。京都より江月和尚をよんで開祖とし、箱崎松原に広大な境内を与えます。この寺に如水、長政、4代綱政、6代継高の墓があります。(長政の夫人大涼院は曹洞宗の宗誕和尚に帰依して、吉塚の明光寺に埋葬をしてもらったということですから、臨済宗と曹洞宗の2派に分かれたことになります。)寺院の歴史は複雑で、場所が変わったり宗派が変わったりしています。しかし同じ宗派であれば横の連携があるので、黒田氏の菩提寺と古賀地区の臨済宗や曹洞宗や浄土宗の寺とは歴史的繋がりがあったと思われます。黒田長政が古賀にきたとき、雨宿りで立ち寄ったと言われている泉林寺(久保)は、浄土真宗ですが、もとは筵内にあり天台宗であったということです。小山田斉宮の隣の長勝寺は曹洞宗ですが、如水や大涼院との関係はなかったのでしょうか。(薦野氏と米多比氏)古賀市の歴史の中で、特に有名な豪族は薦野氏と米多比氏です。薦野氏は、多治比薦野立花黒田と変わって行った氏族で、立花城主に仕えてたあと、黒田藩の重臣として仕え、最後は黒田の姓を頂くまでになりました。薦野鎮房は、立花鑑載が大友氏に謀反をおこしたとき、立花城内で謀殺されたことは前に述べました。その子増時は、立花道雪に仕えて多くの戦功をあげ、一時は道雪が養子にしたいと考えたくらいでした。そして道雪が養子に迎えた宗茂の妹を、増時の長男成家の妻にしています。増時は道雪のあと宗茂に仕え、秀吉が九州に出陣するときに、宗茂の名代として大阪城に上りますが、この時から立花姓を名乗るようになります。関ヶ原では東軍につくことを主張しますが、宗茂が恩義のため西軍についたため、柳川城の開城番となり無事役目を果たします。一時は熊本の加藤清正に抱えられますが、黒田の招きに応じて福岡に帰り、1623年に病でなくなり、梅岳寺の道雪の墓の左側の墓に葬られています。その子成家も、朝鮮への出兵に参加し戦功をあげています。関ヶ原以後は父とともに黒田に仕え、4000石の重臣となりますが、長子正重が若死にして途絶え、成家の弟増重とその子重根(実山)がよく黒田に仕え、一万石の重臣になります。立花実山は三代光之の近臣として長く使えますが、四代綱政の代になって疎まれ、嘉穂郡鯰田に幽閉されたあと謀殺されたことは有名です。

立花実山

1752年の事件としては、黒田藩の財政再建に功績をあげた家老吉田保年(高年)とその子直年親子が、突然不忠の嫌疑で捕らえられ、薦野村の立花次郎太夫にあずけられています。緊縮行政に対する他の家老たちの讒言による処置だったようで、藩主継高の気まぐれな判断で、黒田藩の財政はますます悪化し、10年後には藩主が謝って、また吉田保年を再度呼び出したり、あとでまた蟄居させたりしています。この頃の薦野氏は、もう行政の中心にはいなかったと思われます。しかしその子孫には俳句で著名な人物や勤王派で活躍した人物など出たようです。米多比氏も薦野氏とともに、古くから古賀に土地を領有していた豪族で、米多比の地を大友義鑑より安堵されたという記録があるようです。立花鑑載が大友氏に謀反をおこしたとき、薦野鎮房とともに米多比大学(直知)も謀殺されました。その子鎮久は若くして跡を継ぎ、いくつかの戦功をあげて道雪の信頼を得ます。そして道雪の養女吉子を妻にもらい、立花の姓を与えられます。柳川に移ってからは城番家老となりますが、宗茂が妻のぎん千代と別居し、矢島某の娘をいれて妾としたので、これを快しとせずに道雪の未亡人西姫(吉子の母)を薦野の自宅に招いて孝養をつくします。その子鎮信は、宗茂が関ヶ原のあと一時奥州棚倉に預けの身になったとき、同行して仕えたようで、さらにその子鎮実は島原の乱に出陣し、原城を攻撃中に戦死しています。その孫の鎮俊の時代に、矢島氏との間に争いがあり、4代立花藩主鑑虎の勘気にふれてお家断絶となりますが、その子の時代にまた再興されます。このように天下平定の時代にも、武家の社会にはお家騒動やメンツの争いがあり、事件が絶えなかったようです。現在古賀市の電話帳では、薦野姓や米多比姓が一人も残っていないようですが、みな大都市に出られたのでしょうか。(唐津街道と伊能忠敬)筑前国のなかの最大の幹線は長崎街道になったことは、前に述べた通りですが、その次が唐津街道です。筑前藩と唐津藩が主に参勤交代に使っていたので、唐津街道とよばれましたが、文政以降は薩摩藩も博多を経由するようになり、赤間道とよんでいます。しかし朝鮮半島や大陸との往来街道として、有史以来の歴史をもったルートで、部分的に変化があっても、玄海沿いの重要なコースだったことのは明白です。このなかに、古賀市の歴史を代表する青柳宿があり、1812年頃伊能忠敬が、唐津街道の計測のため青柳にあらわれています。唐津街道の宿場唐津--浜崎--深江--前原--今宿--姪浜--福岡--博多--箱崎--青柳--畦町--赤間--植木--木屋瀬--黒崎--小倉 (赤間--芦屋--若松は、若松街道)忠敬は箱崎宿より青柳宿にきたようで、「一里行けば青柳宿。箱崎より是まで三里二十五丁、人家二百軒茶屋宿屋あり。」と筑紫紀行にかいています。そして彼の測量日記には、太閤水から青柳宿の間を下記のように詳しく記載しています。「道端に地蔵堂あり。並に飯銅水というあり。太閤名護屋御出陣に、この水のませらるるという。左右に一里塚あり。左側ばかり上府村、右側ばかり小竹村、左右青柳村枝神田、右十四五町ばかりに同村持古城跡四万城という。城主知らず。並んで同村持古城跡新城という。立花家臣籠城のよし。」と書いており、四万城は前岳で、新城は古子山ではないかと思われます。

青柳宿場の図
青柳宿場の図

さらに青柳宿では、「本川石橋八間、青柳町、右馬駅場。止宿前制札、街道上にて打上、三十二町三十間。止宿本陣城戸与三郎。脇、森甚太郎。原左太夫、山本源助、上野小八郎、日々両手へ着添。当所代官中沢弥右衛門出る。郡下役原口次平、松岡伊兵衛、糟屋郡下原村大庄屋天野善十郎、宗像郡武丸村大庄屋伊豆善右衛門、久末村大庄屋城戸源右衛門出る。」と書いており、大勢集まって情報交換したものと思われます。青柳脇本陣跡の城戸家には、島津久光、鍋島藩、黒田藩などの宿札が保存されています。本陣はいまの青柳醤油(崎村家)周辺で、天理教会の建物も副本陣跡といわれています。山家宿や原田宿のように多くの資料が残っていれば、まだ詳しい歴史がわかるのですが、近代のわりには資料が散逸してしまっていて残念です。

「薩摩中将(島津久光)休」
「薩摩中将(島津久光)休」

青柳宿構え口跡
「ふるさとの道と文化」


著者:絵歴Talk-2000(gfujino@yahoo.co.jp)
頁作成:櫻井裕子(yukos@land.linkclub.or.jp)