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絵歴Talk2000 さんの新古賀歴史探訪

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『その10』幕末・明治維新と九州・古賀

   西欧文明・工業化時代(1800以降)

古賀市の歴史もいよいよ幕末・明治維新を迎えます。幕末になるとオランダ以外の西
欧諸国から次々に船が来航して開国を迫ります。特にアメリカの黒船が徳川幕府の太
平の眠りをさまし、国際化時代にたいして無能力な幕府は、旧来の政治が成り立たな
くなり、結局幕末の混乱期に転げ込んでいきます。

幕末・維新における活躍はよく知られているように、薩摩、長州、土佐、肥前が主役
であり、筑前(黒田)は全く情けないくらい保守的状態でした。しかし幕末・明治以
降の歴史の評価は、時代が近すぎて評価しにくいので、大学入試でも敬遠されています。
そこでこの項では、視点を古賀市から全九州にひろげて、長崎から取り入れられた西
欧文明、特に私の専門とする電気技術を主体に、工業化の歩みを眺めてみることにし
ます。

特にインターネットの前身である通信関係は少し詳しく述べてみます。ただし時代は
幕末から明治・大正までを主にしました。
以下の各項の文章のはじめに示す図形は、◯が全国的な事項、●は九州・山口・広島
関係、◎は古賀地区関係を示しています。

A(九州における近代工業の起こり)

江戸幕府は「鎖国」という、技術開発に消極的な政策をとってきましたので、欧米の
近代工業の発展に大きく遅れました。
●1850年(嘉永3年)頃にようやく幕府は、長崎を中心に洋式工業技術の育成を
はじめ、長崎製鉄所(現在の三菱重工長崎造船所構内)や長崎海軍伝習所(現在の長
崎県庁構内)を造りました。海軍伝習所では、勝海舟らを中心に海軍技術の伝習と同
時に、電信機取り扱い伝習をはじめています。

したがって江戸末期の近代工業技術は、すべて九州長崎からはじまり、機械・電気・
制御・医学などの学者や技術者は、すべて長崎留学を行っています。 九州の各大藩
も洋式技術への関心が高く、藩の内部での開発に取り組みました。特に肥前と薩摩は
、石炭や貿易による経済的余裕があったので、幕府よりはやく洋式技術の習得につと
めました。

● 天領地「長崎」の管理奉行は、肥前と筑前が隔年交代で行っていましたので、肥
前藩主鍋島直正は新技術の習得や開発に熱心で、反射炉、銃、大砲、蒸気船などの製
造に成果をあげました。筑前藩主黒田長薄(ながひろ)は、個人的には外国への見識
をもち、エレキテルの文献を80両で購入し、適塾の福沢諭吉らに翻訳させたり、い
ち早く精練所の建設なども指令しいますが、これらの新技術の開発は保守的重臣に阻
まれて、具体的成果は上がらなかったようです。いま一つの原因は藩が経済的に疲弊
していたことによるでしょう。
● 薩摩藩主島津斎彬(なりあきら)は沖縄貿易による経済力と一枚岩の藩権体制の
もと、肥前より早く洋式工場を設けて、強力な軍事力を築きます。勝海舟の海軍練習
船が沖縄巡航を計画しますが、これを寄せ着けないほどの威力をもっていて、江戸幕
府体制の崩壊、明治維新の主導者になりました。

● 久留米、熊本、大分、宮崎などの各藩にも人材はいましたが、保守的藩主の政策
で大きな成果がでていません。

〇明治維新以後、明治政府は富国強兵の基本方針を建てて鉱工業の育成を計り、工部
省を軸に近代技術の開発を行い、特に電気技術では電信事業の導入と普及を急ぎまし
た。詳しくは次項でのべます。

●日清・日露戦争の過程で日本工業の第1次発展が進みましたが、この間九州におけ
る近代工業は、まづ「石炭、製鉄、化学」などの一次産業が急速に発達します。
◎古賀地区では古代から谷山に銅山があり、寺の鐘などが鋳造された記録があります
が、明治のころは山田(久山)の銅山や石炭が掘られていました。最も近くでは、新
宮の福岡工業大学付近に小形の炭坑がありました。
●明治末期には北九州工業地帯が形成されました。夏目漱石の短編小説「野分」(M
40年)では、明治後半の九州を主人公に次のように語らせています。
「つぎに渡ったのは九州である。九州を中断してその北部から工業を除けば九州は白
紙になる。石炭の烟を浴びて、黒い呼吸をせぬ者は人間の資格がない。・・・・・」

● 森鴎外が小倉在住中に、「我をして九州の富人たらしめば」の一文を新聞に掲載
し、当時の炭鉱経営者の浪費をいましめ、文化的向上につくすように警告していたこ
とは、良く知られています。(M32年)

◯ 大正初期の世界大戦で、輸入の途絶えた先進国の工業製品を国産化しさらに輸出
するため、日本工業の第2次発展が起こりました。
●この時期に石炭を基盤とする地元資本と大手中央資本が、競って九州における電気
や機械の産業に投資を行い、九州における2次産業が漸次発達しましたが、大正後期
には第一次世界大戦の終了と、社会運動の活発化により大きな反動不況がおとずれ、
地元資本の企業は大手資本に吸収合併される傾向が現れました。そして電気機械が九
州の主要製造業出荷額の10位以内に入るのは1970年以後であります。

B(通信事業)

(1)電信

◯電気技術の起こりは日本では「電信」であります。1849(嘉永2年)に佐久間
象山(信州)の試作したと言われる電信機が残っていますが、本格的には1853年
(嘉永6年)ペリーの黒船が2度目にやってきたとき、汽車の模型などと共に電信機
2台を幕府に献上し、江戸城内や横浜で実演してみせたのが、日本における「最初の
電信機」登場であります。

●1855年(安政2年)オランダ船が長崎に電信機を伝え、幕府の海軍伝習所で電
信機の組み立と操作の研修が行われ、勝海舟、津田真道、西周、加藤弘之らが参加し
て、講習テキストにより取り扱い方を習得しました。

◯1862年(文久2年)にはオランダに留学した榎本武揚らが現地で電信の実用状
態を視察して感銘をうけ、2台購入して帰国しましたが、すでに幕末の戦乱期に入っ
ており、この電信機に再会したのは、明治23年、彼が電気学会会長となって3年目
の学会会場でありました。

●長崎の海軍伝習所には、地元から肥前、薩摩の若い藩士も参加しました。薩摩の中
原猶介、肥前の石丸安世、中村奇助、久留米の田中久重もこれに加わり、一年後に中
原、田中の手により試作品が完成し、この1台を薩摩藩に運び、本丸と二の丸の間で
通信実験を行っています。
●この実験(安政4年)に参加した寺島宗則は明治元年に電信建設の建議を政府に起
こしています(のち外務大臣、元老)。

●田中久重は「からくり儀右衛門」の名で有名で、べっこう細工師から身を起こし、
万年時計、からくり人形、製鉄、蒸気機関などの開発に関係し、明治維新以後は、工
部省の電信機の開発者に招聘され、その後「田中工場」を設立し、これが後に芝浦製
作所をへて東芝となりました。

●中原は薩摩藩の技術将校として活躍しますが、のち北陸「長岡城」攻撃の砲撃隊長
として出陣し戦死します。
●石丸安世は大隈重信の片腕として電信事業その他の技術官僚となり、のち元老とな
ります。
●中村奇助は化学技術に優れた才能を発揮するのですが、のち火薬実験中の事故で爆
死しました。

〇明治政府も「電信機技術の普及」を近代化の第一にあげて、明治2年に東京〜横浜
間に電信装置を架設しました。これは英国技師IMキルバートの指導によるもので、
その後全国の電信ネットワークの設営に力をいれ、短期間に実現しました。

●即ち明治6年には「東京〜長崎」間の電信回線が完成し交信が出来るようになって
います。この推進には肥前の大隈重信が力をいれて、長崎局の開設には自ら先頭に立
ち、石丸電信頭とともに乗り込んできましたが、丁度政府内に対立問題が発生し「ス
グカエレ」の電信が再三きたので、「こんな事になるのか!」と大笑いしながら帰京
したといいます。この電信網は明治10年の西南戦争で威力を発揮し、官軍に大勝利
をもたらしました。

◎この時の電信柱は一里に70本の割合で立てられ、古賀地区では、西郷村界よりス
タートし、青柳を経て、三代の唐津街道沿いに進み、香椎、箱崎、馬出までの間、約
4里に275本立てられました。(電柱番号:918〜1192という記録が残って
います。)
しかし当時はただ電線が通過しただけで、古賀の青柳に電報局ができるのはT11年
です。
○政府は普及を急ぐあまり、電柱を田圃の真ん中に立てたり、勝手に山林を伐採した
りしたので、反対運動が起きたりしていいます。これは「電信騒擾」とされ、先進国
では類例のないことであります。

○幕末に英国艦隊が長州を砲撃し、多数の水兵が上陸しながら簡単に引き下がったの
は、本国から電信による中止指令が届いたからであります。明治政府も軍事、行政上
の最大の問題と考え電信網の整備を急ぎました。
●また当時、国際海底ケーブルによる世界的長距離電信網の争いが始まっており、す
でに北欧の大北電信会社によるシベリア--長崎--上海間のケーブル計画が進行してい
ました。これと並行して長崎--横浜間の陸上ケーブル計画を持ち出し、明治政府に交
渉をしてきました。だから下手をすれば、外国資本に電信網を奪われる可能性が起き
ていたのも急いだ理由の一つです。(明治12年に日本は万国電信条約に加入しまし
た。)

○●その後工部省で電信機が試作されましたが、正式の国産化は明治6年に工部省の
要請で「田中工場」(別名:珍器製作所)で、前述の田中久重が中心となり、ヘンリ
ー電信機10台を製作して、政府に納入したのが初めであります。その後明治11年
に事業はすべて官営化され、電信中央局(木挽町に建設)中心に計画が進められ、一
旦田中工場は国営化されました。
◯●その後電信機需要の拡大で、明治15年頃より民間に田中工場(のち芝浦製作)
、沖電機(のち沖電気)、吉村工場、石杉社(のち安立電気)などのメーカーが出来
ました。しかしこれらの創業者は、もと工部省または逓信省の職員が多く、そこで得
た技術と政府との結び付きにより確保された販路をもっており、安全な投資でありま
した。 この中で初期には田中工場、石杉社、そして沖電機が安定した成長をとげま
した。


(2)電話機 

◯●アメリカのベルが1876年(明治9年)に電話機を発明しました。米国に留学
中の金子堅太郎(福岡)らは早速ベルの研究所を訪問して通話実験をさせてもらい、
「おお!日本語が聞こえる!」と驚嘆したといいます。

◯翌年には電話機が日本に輸入されて、政府の工部省電信局では、留学帰りの若手技
師を加えてわずか6カ月で模造に成功しています。しかし性能改善にはさらに数年を
要しました。

○この性能改善と事業化資金不足のため、本格的な普及には時間がかかり、1887
年(明治20年)に東京〜熱海の実験通話に成功し、東京・横浜で200名の加入者
を対象に電話事業を開始したのは明治23年であります。
◯ただし明治10年の輸入直後より、大都市間の警察専用電話は先行して進められて
います。
◯その間アメリカのベル・テレフォン(のちATT)は従業員9000人の大企業に
発展していました。したがって、日本での電話装置は当初輸入主体で進められました。
◯初期の電話交換機はATT系のWE(ウエスターンエレクトリック)社製単式交換
機でした。明治37〜38年に電話の需要が急増しましたが、これに対応して交換機
も明治31年頃から並列複式が、明治42年からは共電式交換機が導入されました。

〇国産化は逓信省と沖電気などでの模倣試作から始まり、交換機はWE社製品の模造
生産を行っています。WE社は日本電気に株式参加して、輸入業務から次第に現地生
産に拡大しました。電話事業も納入先が逓信省であるため、新規企業の参入は殆どな
く、明治44年には、日本電気、沖電気、共立電気(のち安立電気)の3社で電話機
、交換機を独占的に生産しました。 
◯●日本電気の前身は、三吉工場(三吉正一)で、後述するように発電機、電動機、
や白熱舎の電球などで急成長しますが、明治31年に倒産してしまいます。その後こ
れをを母体にWE社と住友資本の合弁で日本電気が設立されました。
●三吉正一(山口県岩国)も沖牙太郎(広島県)と同じように工部省の工部寮で外国
技術を習得したあと、独立してベンチャー企業を起こした人物でありますが、大資本
の中に埋もれてしまいました。

◎古賀町では、T11年6月より青柳郵便局 で、電信配達事務、電話通話事務がは
じめられます。さらに青柳・小野・席内に特設電話をおくようになります。昭和のは
じめで、電話加入者は五十数名でした。

(3)無線通信

◯明治29年マルコニーが無線通信の実験に成功してから、日本も逓信省と海軍で独
自の研究をはじめ、明治30年に逓信省方式、34年に海軍34式無線機を開発しま
した。
◯明治39年にベルリンで規制制定の会議が開かれ、日本から初代電気試験所長浅野
応輔が出席し、持続電波発生装置の研究を重視し、帰国後若手のプロジェクト班(鳥
潟、北村、横山)に研究を命じ、TKY無線電信機を明治45年に完成しました。当
時は安定度の良さを高く評価された製品でした。鳥潟はのち真空管の研究でも活躍し
ます。

○●これらの製作は、当初明治33年東京大学助手安中常次郎が設立した安中電機製
作所(のち安立電気)により完全寡占的に生産されました。日本海海戦の「敵艦見ゆ
」の海軍無線機や船舶無線機、海岸無線局などの市場を独占できたのは、他社がまだ
市場が小さいと見ていたからでしょう。

◯大正時代にはいり私設無線局が増加しはじめ、T4年に日本無線(テレフンケンと
技術提携)と沖電気、T9年には東京無線と東洋無線が新規参入して、いわゆる無線
5社となりました。
◯3極真空管やフィードバック回路の技術の登場で、無線5社に大きな変化がおきま
した。真空管の試作が逓信省で成功したのはアメリカより10年遅れのT6年であり
ます。

○●東京電気は真空技術の蓄積とGE社からの技術導入ですぐに国際水準の送信管を
開発し、日本電気もWE社との技術提携で各種の真空管の開発を行って、無線機の市
場に参入しました。とくに大型水冷送信管の完成で輸入品を駆逐するようになりました。
◯このため安中電機と共立電機は減資合併するなど苦戦を強いられました。無線機器
の企業が順調な発展を遂げるのは戦時体制にはいってからで、財閥系の日立、三菱、
富士通信機も参入してきました。

(4)ラジオ放送 

◯ラジオは最初「無線電話放送」とよばれ、東京無線電話会社の放送機により大正1
3年東京で試験放送が行われました。 

●◎九州で初めてラジオの試験放送が行われたのは大正14年2月11日であります
。福岡市で九州日報が企画し、九州日報本社(中之島町)より放送、中州の九州劇場
と東町の大博劇場が受信会場で、満員の聴衆が演説や演奏を聴きいいりました。さら
に16日には久留米でも実験放送が行われました。

◯当初の放送機器は皆輸入品でした。東京放送局が愛宕山から放送電波をだしたのは
大正14年3月1日で、GE社製200Wの無線電話機を使用しました。さらに大正
14年6月から大阪放送局が、WE社製500Wで、名古屋放送局は7月からマルコ
ニー社製1KWで放送を開始しました。これらは大正15年に日本放送協会に合併さ
れます。

〇昭和初期に真空管式ラジオ受信機の市場が拡大します。当初は前述の無線5社によ
って製造されましたが、高価のため伸びなやんでいました。これに対して部品を購入
し組み立てるセットメーカー(山中、七欧、松下、早川など)が、値段で対抗し市場
を伸ばしてきました。
◯これに対して昭和5年に東京電気はGE社の特許実施権を獲得し、また真空管の量
産体制を整えて、他社に生産の中止か、系列にはいるように求めました。セットメー
カはほとんど系列化されたなかで、松下だけは販売量が多いため真空管の優良取引先
として、対等の関係を保つことが出来ました。

●◎九州では大正15年にNHKの熊本支部が置かれ、中継放送が始まりました。昭
和3年に各支部が独自の放送をする中央放送局になり、同時に福岡放送局も設立され
ました。熊本・福岡放送局の設備は英国のマルコニー社製10KWの放送機でした。

C(電力事業)

(1)電灯
◯●明治11年の電信中央局開設記念式典で、初めてアーク灯による照明が公開され
ました。これが日本における最初の電灯で、工部大学校のエアトン教授の指導で、学
生の藤岡市助・志田林三郎・中野初子・浅野応輔らが実験に成功しました。この日を
記念してのちに3月25日が電気デーとされました。志田・中野は九州出身の学生です。
◯この学生4人はその後各分野で日本の電気技術の発展に貢献しします。藤岡はのち
に東京電気で電球の国産化に活躍し社長に、浅野は初代電気試験所長となります。
●肥前出身の志田と中野は、工部大学教授となりますが、志田は工部局長に転身し電
気学会の創設などで活躍します。しかし明治25年病のため早逝しました。中野は工
部大学教授時代に九州大学工学部の設立準備委員として九州のため貢献しました。
◯3年後にはガス灯に代わりアーク灯が普及しはじめましたが、エジソンの白熱電球
が明治12年に発明され、日本では明治17年に上野駅で初めて使用されました。さ
らに内閣官房局、大阪紡績工場、鹿鳴館などに設置されますが、すべてアメリカから
自家用発電機器の輸入品でした。

(2)発電
○電球の便宜性が認識されると、中央発電方式の電灯会社が相次いで設立されるよう
になります。 明治19年の東京電灯(株)が日本橋で、英国製蒸気機関と三吉電機
製直流発電機を使用して開業したのが最初とされています。その後1〜2年の間に横
浜、名古屋、京都、大阪、神戸などに同様の小規模火力発電所の設立が続きました。
●大阪電灯の設立には、福岡県豊津出身でGEに留学していた岩垂邦彦が活躍しました
。東京電灯の直流方式に対し、最初から大阪電灯は岩垂の主張で交流方式を採用し、
、GE社からは日本人の裏切り行為と非難されますが、後に彼の見識の正しさが高く評
価されました。
◯その後明治30年に東京電灯が浅草発電所の開業にあたり、石川島製単相交流発電
機とAEG製3相交流発電機を設置したことを契機に、日本も交流時代に入りました
。しかし東京電灯が50ヘルツ、大阪電灯が60ヘルツを採用したことから、いまだ
に周波数の不統一が尾を引いています。
●明治23年に東京電灯の移動式発電機による宣伝隊が、九州鉄道(国鉄の前身)の
博多駅で開通式に点灯しました。九州で大衆が電灯をみたのはこの明治23年がはじ
めであります。
●九州では明治20年熊本の第九銀行頭取三淵静逸が、電灯事業の将来性を見込み会
社設立認可を県知事より受けました。しかし株式募集が難航し24年にやっと開業に
漕ぎ着けたのが熊本電灯(資本7.5万円;のち九州電気)であります。当時は直流
発電で発電所は熊本城の中、城の須戸口門に記念碑があります。この12.5Kwの
発電機は一時熊本大学に保存されていましたが、現在は九州電力のエネルギー館(福
岡市)に展示されています。 

熊本城の須戸門にある記念碑の絵(右上の小屋が発電所。手前の建物は黄斉校)
●博多電灯と長崎電灯は明治27年に開業しました。博多電灯は太田清蔵、津田利夫
、門司軌、野村久一郎ら地元有志と、17銀行、筑紫銀行などの出資により資本金5
万円で発足しました。太田は家業が油屋で、種油から石油ランプに代わり、さらに電
気の時代になることを予測して、父親の反対を押し切って出資しました。
◎古賀では、T3年に席内、青柳村にはじめて電灯がつきます。
●福岡市に九州電灯鉄道(株)により名島発電所が建設されました。着工は大正7年
、発電は大正9年4月に10、000KW、間もなく東邦電力となり40、000KWま
で増設され、当時は東洋一の発電所で4本煙突の雄大な外観でした。(昭和35年廃
止)
     4本煙突の名島発電所     
   (私は学生時代にこの名島発電所で実習をしました・)

●その後、九州各県に電灯事業が起こり、併せて電鉄も始まったので、電力の需要が
高まってきました。電灯会社による発電所と独立の発電事業が乱立しますが、次第に
電力会社の合併が進み、さらに昭和になって国策により発電、送電が全国的に合併し
て日本発送電(株)となり、あと配電は九州配電1社に整理統合されました。 
●戦後日発が分割され、九州電力に編成変えされる時、松永、安川らの活躍がありま
した。
◎古賀市にはじめて電灯がついたの大正13年で、青柳と席内地区が最初でした。

(3)電気化学
●火力と水力の比は明治36年には7対3でしたが、需要の増大で水力の開発が進み
、明治45年には、5対5の比になります。特に九州は水力が豊かな地形で、戦前ま
で水力の比率が高く、安価な電力が得られました。
●したがって九州に窒素やカーバイトや人造絹糸などの化学工業の設立が進みました
。特に日本窒素は電気技術者出身で積極果敢な事業家野口純がドイツのフランク・カ
ロー法による電気分解式窒素肥料の製造に成功し、国策会社として成長しました。

(4)白熱電球
◯●電球の国産化は明治23年白熱舎の藤岡/三吉らにより始めて成功しました。し
かし品質やコストの競争で、当初は輸入品に対抗できなかった時代がありました。
○白熱舎では改良努力を続けましたが、ついに三井資本が入り、さらにGEとの技術
提携を行い、カーボンからタングステンへの切り替えもすすんで、国産品が輸出され
るようになり、これが後に東京電気から東芝に発展しましたた。 
●大正10年に東京電気は小倉の大正電球を買収して、特殊電球や真空管の製造工場
としました。現在の東芝小倉は、半導体の製造に変身していますが、最初は電球向上
でした。 
◯灯台の電化はM34年に尻尾崎灯台がアーク灯化され、M43年に神島灯台が白熱電
球化されたのが初めであります。
●点滅灯台としては、T13年に関門の門司崎灯台が日本初であります。

(5)電線
◯日本は銅の産出量が多く、電信事業の初期より国産の銅で電線をまかなうことがで
きました。佐久間象山が自作したという絹巻き電線が逓信博物館に保存されています。
○伸線機械の輸入と技術指導をうけ、比較的小規模での企業で生産が可能でしたが、
明治30年頃には古河、住友、藤倉などの財閥系電線企業が創業して、大手企業化し
ていきます。
●九州では、M44年に古河の門司工場が開設され、九州における大手電線の初めと
なりました。

D(電鉄事業) 

◯日本の電気鉄道は明治23年上野公園内萬国博会場で運転されたのが最初です。(
GE社製)。
◯本格的市電の初めはM28年の京都電鉄の開通であります。東京の路面電車はM30
年頃よりはじまり、蒸気鉄道の一部電化はM37年(中野〜飯田)が最初で、M45年
に碓氷峠の電化が成功しています。
●九州における電気鉄道の初めはM32の豊後電鉄で、大分〜別府間に開通しました。
●M42に小倉市に九州電気軌道、M43には福岡市に福博電車が開通します。福博電
車の開設には壱岐出身の松永安左エ門(福沢諭吉の門下生)と福沢桃介(諭吉の養子
)が協力し、3年がかりの企画と建設に活躍して、M42に東西線、M43に環状線が
完成します。環状線には渡辺与八郎の構想も強く出ており、渡辺通りの地名が残って
います。
◎博多湾鉄道はT13年に、新博多--和白間の私鉄電車の営業をはじめます。さらに
福間--宮地嶽間を、津屋崎軌道が馬車軌道で営業していたものを買収します。そして
和白--福間間の営業開始はT14年で、古賀の駅は新古賀駅と名付けられます。福間
--宮地嶽の電化はS4年に完成し、これで新博多--宮地嶽間が完全につながります。

国鉄の博多---赤間間はM23年に蒸気機関車による運転がはじまり、電化されたの
は昭和36年です。
●福博電車(福岡市内)、九州電気軌道(小倉)、九州鉄道(大牟田線)、博多湾鉄
道汽船(宮地嶽線)、筑前参宮鉄道(宇美線)の五社合併により西日本鉄道が成立し
たのは、昭和17年5月9日です。
〇車輛は当初は輸入されていましたが、電鉄会社の仕様で芝浦、日立、川崎などがM
32年頃より製造を初め、電気機関車はT11年に芝浦が伊那電鉄に納入、国鉄ではS
3年EF52型が数社の共同設計で完成しました。

E(電気機械)

(1)発電機
◯●明治17年三吉工場(三吉正一)により製作された雷管爆破用の手回し小発電機
が国産初の発電機です。翌M18年には白熱電球用の15KW直流発電機を製作、東
京電灯に納入して、東京銀行集会所の開所式で40個の電灯を点じています。
○●三吉は会社名を三吉電機工場と改め、発電機、電動機、変圧器、電車用機器など
を製造し、工場はその後10年間位は電気機器分野で飛び抜けて急成長しますが、そ
の後多くの企業が大手資本により設立され(石川島造船・芝浦製作・日立・三菱など
)、競争が激しくなって、明治31年の不況期に遂に倒産しました。その後住友資本
が入り、前述のように日本電気に引き継がれています。
◯●彼の会社の人材には、岡電機の岡源三、明電舎の重宗芳水、小田電機の小田荘吉
など、のちに独立して企業を起こしたものが大勢います。
◯京都の奥村電機も発電機や変圧器の製造を手がけ、京都の水力発電による電気鉄道
の開業などの需要に応えました。

(2)電動機
◯明治23年に浅草・凌雲閣にエレベータが取り付けられ、7.5馬力の直流電動機
が使用されたのがわが国初の電動機運転と言われています。上野公園の電車より少し
前です。
○その後電動機は工場、鉱山、船舶などに利用され、芝浦製作所が他社をリードして
、M33年には25馬力、M35年には100馬力、42年には280馬力のレウナー
ドスキップ巻上げ機を三井三池鉱に納入しました。
◯●交流電動機は明治28年に芝浦製作所で2相式25馬力の誘導電動機を製造しま
した。さらに明治32年に3相式1馬力を製造し、3相モータの時代になりました。
明治40年頃には芝浦のほか日立や明電でも200〜1000馬力の誘導電動機が製
作されています。
◯●T10年頃より多くの電機会社が設立されるようになります。特に鉱山資本系の
会社が多いのは、資金が潤沢であるほかに現場の要求が大きかったためです。すなわ
ち発電会社はむしろ輸入電機品を尊重したのに対して、鉱山業では輸入電気機械を過
酷な条件で使用をするため、焼損事故が多く発生したので、対応の速い国産品を必要
としたのが実状です。
●九州での本格的な電気機械の専門企業は、アメリカ留学より帰国した安川第五郎を
中心として、大正4年に設立された安川電機が最初です。安川電機は明治鉱業の地元
資本(資本金25万円)で設立され、炭坑用電機品の製造から初め、各種の電気機器
を製作しました。関東大震災で一時的に潤いましたが、多品種の受注生産で苦しい経
営が続き、昭和7年に製品の縮小と量産化でやっと黒字に転換しました。電機メーカ
の寡占化が進み、創世期からの多くの企業が消えたり、大資本の傘下に入ったなかで
、まだ生き残っている数少ない企業であります。

●九州の三菱長崎造船所の中に電機工場がM31年に設立され、船舶用電機品の修理
からはじめ、製造に発展していきました。発電機や電動機の製作を進めてきましたが
、独立会社の三菱電機となったのはT10年であり、神戸などの関連工場と一体とな
り、またT12年にWH(ウエスティングハウス)社と技術提携して総合電機メーカ
ーに発展しました。

(3)静止機器
○変圧器や開閉器、遮断機、避雷器、制御機器などは、多岐にわたり、技術のながれ
や開発の経過も複雑であります。それぞれの分野で、大手企業内や関連会社で開発さ
れたり、専門のメーカーが開発したりしていますが、一般には大手企業か電力会社の
系列に属しているのが普通です。
◎一例として、古賀市にある西部電機があります。九州の電力会社のなかで最大手で
あった東邦電力の電機修理工場は採算性が悪く、閉鎖計画が出されました。T11年
に工場長だった福田稔・坂本幾太らは独立して西部電機を起こし、今までの事業を継
承、さらに計器や炭坑用電機品の製作などへ拡大してきました。昭和18年に福岡市
内から古賀に新工場を建設し、、安川電機と提携して新製品の開発を展開しています。

(4)計器類
●初代島津源蔵の父清兵衛は筑前遠賀の出身で、京都に出て仏具師となっていました
。源蔵は明治政府の京都舎密局に出入りするうちに、科学分析機器に興味を持ち、M
8年ころより科学実験機器の製造販売をはじめ、2代目源蔵は特にエレキ機器に関心
をもって、電気計測機器の研究開発を行い、現在の島津製作所となりました。
○関東では、大正初期より明石製作所や横河電機が計測機器を中心に事業を展開しま
した。
 
F(家電製品)

◯●江戸時代より「みせもの」即ちアミューズメントの製品があり、人形、模型、機
械器具の細工ものが「お祭」などで展示され、また富豪の持ち物となっていました。
寛永8年の「浪華みやげ」の”エレキテル細工”には、摩擦電気で紙細工の人形、帆
かけ船、紙花などを動かした「みせもの」の記録があります。
◯●その後精密機械の起点である時計技術と結びついて、からくり時計やからくり人
形の技術へと発展します。
◯●からくり人形師には3分類があり、伝統的人形師から入ったグループ(箱もの師
)と、算術などで正確なトルク計算をして設計した細川グループ(洋学者)、それに
田中久重らの天才的アイディアによるグループ(ベンチャー)であります。

◯●富豪のおもちゃとしてのからくり人形のなかには、制御技術が多く含まれており
、のちのロボット工学へと発展します。前述の安川電機では産業用のロボットを戦後
製品化しました。
○電灯・電話以後、家庭で使用する電気製品の国産化は、M27年の扇風機(芝浦製
作所製:エジソン式直流電動機)が恐らく初めでしょう。
◯その後T5年頃から交流扇風機の量産化がはじまり、一般に普及しはじめます。
◯電気洗濯機は、T11年に三井物産が輸入をしたのが初めであり、国産化は昭和5
年に東芝が技術導入により撹拌式をはじめました。
◯電熱器具の試作は明治末期よりはじまり、T4年より、電熱器、アイロン、トース
ター、などの商品が普及しはじめました。ラジオなどの放送受信機器は、前述のよう
に放送開始のT15年に登場します。
◯その他の家電製品は、昭和になってから、または戦後になってからであり、現在の
ように家電製品が溢れる時代からみれば、明治・大正は家庭電気製品とは縁の遠い家
庭生活でありました。
 
さらに詳細な年表や参考資料は,私のホームページをご覧下さい。
 http://www.bekkoame.ne.jp/ha/fujino-/

G(古賀の工業化の歩み)
◎古賀市では、「近代工業のあゆみ」という特別展が、平成11年に歴史資料館で開
かれました。その資料により古賀市における工業化の歩みの概要をのべておきます。
1期:近代工業の曙(明治時代)
   これまでの職人による家内制手工業から、次第に近代工業制工業
   に移り始めた時代です。
   「ローソク生産、通運会社、養蚕改良飼育、清酒醸造、機械工場、
   醤油など」。
2期:近代工業の推進(大正〜昭和初期)
   工業生産の種類が増え、戦争により好況、不況の波を繰り返しな
   がら発達しますが、戦局の逼迫以降は軍需産業優先をしいられた
   時代です。
   「包帯工場、焼酎、日本調味料、石川製糸、古賀国益マオラン工
   場、岡部鉄工所、高千穂製紙工場、九州故繊維工場、西部電機
   、城野鉄工、日本防火工業など」。
3期:戦後復興(昭和20〜30年)
   戦後の復興に人々が総力をあげて取り組み、工業生産と景気が蘇
   った時代です。
   「五十鈴産業、古賀食品工業、翁酒造、西部工機、峰製作、児島
   段ボール、正興電機、九州製版、正栄製作、安谷製作、高山プレ
   スなど。」
4期:工業団地時代(昭和40〜平成10年)
   経済の成長に対応して、工業団地を造成し、積極的に工場誘致を
   進めてきた時代です。
   「今在家工業団地、青柳工業団地、鹿部工業団地、三田浦工業団
   地など。」

 以上の経過をへて、最近の業種別の製品出荷額の順位は、つぎの通りになっています。

 1位:食料品、 2位:出版・印刷、 3位:一般機械、
 4位:電機機械、5位:プラスティク、6位:パルプ・紙

以上2000年にわたる古賀市の歴史探訪を、駆け足で行いました。
地理的には古代から文化の往来する場所にあり、もすこし興味のある歴史が残ってい
ても良さそうですが、相対的には歴史の表舞台に出るような大きな事件が少なく、平
和で住み良い地域であったと思います。

アマチュアの歴史散歩で、誤りや修正すべき点もあると思いますので、お気づきの点
はご連絡下さい。

著者:絵歴Talk-2000(gfujino@yahoo.co.jp)
頁作成:櫻井裕子(yukos@land.linkclub.or.jp)