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絵歴Talk2000 さんの新古賀歴史探訪

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『その11』番外 糟屋の屯倉(田淵遺跡)


この新古賀歴史探訪を書いている最中に、古賀市教育委員会より「田淵遺跡」の発掘
調査結果の発表がありました。そして「糟屋屯倉」の可能性があるということで、新
聞にも大きく報道されました。
(その2,3)でふれたように、筑紫の君磐井氏がかって糟屋地区を領有していまし
たが、528年にヤマトの大王と戦って敗れます。磐井の大王は死亡したか、韓国に
逃れたか明白ではありませんが、その子「葛子」が死罪を免れるために、「糟屋の屯
倉」を献上したことが、日本書記に書かれています。
ヤマト側の大将は物部荒甲(アラカイ)であったことが、古事記に記載されており、
年代は書記のほうと数年ずれているようです。
磐井の反乱とか大反乱とか言われるわりには記述に潤色が多く、処分もこの程度で終
わっていますので、反乱を疑問視する説もあるようです。
535年にはインドネシアで大きな火山の爆発があり、アジアやアフリカなど世界規
模の大干ばつが起こっていますので、何か関係があったかも知れません。
さて屯倉の初期は、ヤマト政権が自らの土地開発により開墾した水田で稲の収穫を主
目的とするものでした。
後期の屯倉は6世紀以降に九州からはじまり、各地の国造の領土内にヤマト政権直轄
支配の拠点として、全国に展開されました。これには、稲の収穫以外に、港湾、採鉄
、軍事などの基地も含まれています。
九州では糟屋屯倉が最初で、これを足がかりに穂波屯倉以下8カ所の要所に屯倉が設
置され、これらの統括のために那津官家(博多湾沿岸)が筑紫惣領として配置されま
す。これがのちの太宰府政庁に発展していきます。
那津官家については、福岡市内で高宮の三宅地区にあったか、比恵地区にあったかと
論争されていましたが、最近「比恵遺跡」の調査結果により、これを那津官家跡とし
て「国家史跡」に申請することが決定されたようです。
これに対して糟屋屯倉としての田淵遺跡は、可能性は高いが決定的な調査資料がまだ
得られていない状況です。以下古賀市教育委員会の発表結果を要約して記述してみます。

{A} 可能性としては次のような点があげられます。
1)古墳時代後期の大形建物群(側柱建物1軒、総柱建物1軒)、4重柵列、広場、
溝2条などが発掘されて、古賀市としては、住居跡や古墳以外の官庁的建物跡として
は初めて発見されたものです。
2)現在糟屋郡内では、糟屋屯倉の可能性のある遺跡は他に見つかっていません。(
三宅を那津官家と推定する説では、比恵を糟屋屯倉としていましたが、いまはこの説
がなくなりました。)
3)年代や場所が、文献とほぼ合致していると思われます。

{B}断定するまでに不足しているのは次の点があげられます。
1)発掘調査面積が狭く、屯倉の全貌がまだつかめておりません。
2)木簡などの文字資料が出土していません。
3)古代の官道ルートの席打駅と思われる場所より、海岸に寄りすぎています。ただ
席打駅の遺構も確認されていないので、今後の調査が必要です。

以上のことから、「田淵遺跡を糟屋屯倉と断定することは今現在は出来ませんが、今
後の発掘調査を継続することで、全体の配置や規模を正確に検討して、建物の性格や
比恵遺跡との類似点などを分析して、糟屋屯倉と断定出来るように努力していきたい
と思います」と、調査委員のみなさんは情熱をかたむけて説明されていました。

これが実現すれば、古賀市にはじめて「日本歴史の教科書」にのっている大きな史跡
が見つかったことになり、歴史愛好家としては是非そうなるように祈りたいと思って
います。

この辺で一応筆をおさめることにします。
田淵遺跡
田淵遺跡

田淵遺跡の図(俯瞰)
田淵遺跡(俯瞰)

著者:絵歴Talk-2000(gfujino@yahoo.co.jp)
頁作成:櫻井裕子(yukos@land.linkclub.or.jp)