絵歴Talk2000 さんの新古賀歴史探訪

『その12』番外 博多織の歴史と電気織の近況
(1)中世博多展
福岡市では、今「中世博多展」が開催されています。近頃私が歴史ものに熱をあげて
いることを知っている友人から、「大した物はなかったよ。」とEメイルで報告が
ありました。先手をとられたと思いつつ梅雨空の合間の比較的涼しい日に、あまり期
待もせずに出かけてみました。
第一会場はNHKの大河ドラマ「北条時宗」のロケのためにつくられた中世博多の町並
みのセットがメインの会場で、第二会場は福岡タワーの建物の中に、中世の出土品や
元寇関係の展示がありました。
たしかに目新しいものは無かったのですが、町並みセットの中に博多織の店があり、
店の中では織機の実演がされたり博多織の歴史を示す資料や土産物用の商品が置いて
ありました。
さらに最近の博多電気織のサンプルも展示されていましたので、安川電機と九州工業
大学に在職中にこの博多電気織に少し関係したことを思い出して、説明者としばらく
懇談し電気織の近況をいろいろ聞けたのは予期せぬ収穫でした。
そこでこの機会に少し博多織の歴史を調査・整理して技術や製品の変遷をまとめてみ
ましたので、概要をここに紹介させてもらいます。

中世博多店のなかの博多織店
(2)唐織と博多織の起源
一本の糸でつくるのが「編み物」、数本の糸でつくるのが「組み物」、縦糸と横糸で
つくるのが「織物」です。稲作がはじまった弥生時代に藁を用いた筵などの織物技術
がはじまったといわれています。古賀市には『筵内』という古い地名がいまも残って
いますが弥生時代からあった地名かも知れません。
縦糸と横糸の組み合わせで綺麗な図柄をつくる手織の技術が発達して、有名なペルシャ
絨毯などの工芸品がうまれますが、これには世界中に多くの種類や技法があります。
現在「博多織」と呼ばれる織り方は、中国の唐時代の平織り形式の一種で、縦糸主体
で紋様をだし、横糸が見えないように織り上げることに特徴があります。この方式は
中国より日本に伝えられて唐織とよばれたものですが、アジア諸国の織物を調査され
た鳥丸貞恵さん(福岡県工業技術センター)の話によると、起源はインドから中国に
伝わった方法のようで、ブータンやラオスの高地民族のなかでは、現在でも原始的な
方法で縦糸主体の織物を手作業で行っているそうです。
織物技術には繊維材、製糸、染色、織機、図柄など広い範囲の技術がありますから、
特定の人物だけで日本に導入できるわけではありません。白鳳時代に筑紫館が置かれ、
その後に鴻臚館が置かれて大陸との交易の窓口になって来た博多には、平清盛の時代
には大唐街とよばれるチャイナタウンが形成されていた位ですから、色んな経路や人
物により唐織の技術が伝えられたと思われます。
その中で中世博多の代表的な人物記録として満田弥三右衛門がいます。1230年頃
に禅僧弁円(聖一国師)と博多商人満田弥三右衛門が宋にわたり、6年後に弁円は禅
をきわめ、弥三右衛門は織物の最新技法を修得して帰国しました。弥三右衛門は帰国
後、宋の技法やデザインで織物の製造を開始しますが、そのうち中国のコピーでなく
オリジナルを作りたいと考えて弁円に相談し、禅宗の仏具である「独鈷と華皿の形」
をデザインして独自の柄を考案したようで、これが博多織の起源と言われています。
そして聖一国師により開かれた承天寺に満田弥三右衛門の墓が現存しています。(中
世博多展に博多織が展示されている理由です。)

承天寺内の満田弥三右衛門の墓
満田家はこれを家伝の秘法として子孫に伝え、1480年頃には遠孫の彦三郎が、明
の広東に渡ってさらに新たな技法を修得します。そして帰国後は博多の糸屋竹若伊右
衛門とともに製品の改良を重ねました。戦国末期のことで理由は不明ですが、その頃
満田家は国外退去を命じられ、織り機や技術はすべて竹若家に譲られ、その後竹若家
によって織られた厚手の織物で柳条や浮線紋が好評を呼び、今まで「唐織り」と呼ば
れていたものが「博多織」として知られるようになりました。竹若一家が住んでいた
町は、近年まで竹若町と呼ばれていましたが、今は冷泉町になっています。
絹織物がおもな製品となりましたから、利用者は公家や武将階級に限られており、
一般市民にとっては博多織は縁遠い存在だったようです。
立花城主の立花道雪の側室であった『色姫』の衣装が、小竹の清水家に残っています
が、これはやはり絹織物のようです。
(3)江戸時代の博多織(献上博多織)
安土桃山時代には、博多の豪商嶋井家から大友宗麟に20反の博多織を飛脚で届けた
記録や、豪商柴田・原家から太閤秀吉や秀頼に贈った進物の中に博多織の記録がある
ようです。
江戸時代に黒田長政が入国してからは藩から幕府への献上品として博多織が選ばれ、
竹若伊右衛門が八人扶持、その弟の惣右衛門が七人扶持を支給され、関連の12戸
(織機24基)が織株元として、保護という名の統制のもとで藩からの需要のみにた
よって生産を続けます。
高級品の絹織物が主体となりますが、当時の生糸はすべて中国からの輸入です。鎖国
時代になって輸入ルートはすべて長崎経由となりますので、博多の豪商伊藤小左衛門
(青柳宿出身ともいわれる)は長崎に進出し、母の親類にあたる長崎奉行末次平蔵と
組んでその「糸割り符商人株」を取得し、博多織向け生糸の原価を下げることに貢献
しました。しかし彼が他の密貿易事件で処刑されてからは原価高となり、織り元の利
益は減少したようです。
江戸時代中期以降には、諸藩の統制もゆるみ、西陣織が600戸から2000戸に増
え、その他諸国の新興織元と激しい競争を演じていましたが、博多織は高級品として
知られながら販路が限られていました。遠賀郡出身の博多商人舛屋清兵衛が、江戸の
歌舞伎役者に売り込むなどのアイディアで販路拡大に成功しますが、需要の急増に応
えられずに、西陣、桐生、米沢などの機業地から「模造博多織」がかなり出回りまし
た。
従って博多織は伝統工芸品としての位置付けが固定化して、織元12戸(24基)の
数は殆ど不変のままの体制で続き、「献上博多帯」が絹鳴りの音と共にしゃきっとし
た締め心地の良さが好評なことから博多での生産の主流となります。

博多織の織り機
(4)明治維新以後の博多織(ジャガードの導入)
江戸幕府の崩壊で、献上品の注文はなくなり、織株元仲間も解散されます。それで維
新直後には織元の徒弟から独立するものが増えます。織元富屋宗助の徒弟だった中西
久吉、高瀬屋の徒弟だった大庭利七などがそれで、次々に新しい織り屋が開業されま
すので、明治10年には織元は49戸(77基)になります。
さらに明治の文明開化で欧米の先進技術が一斉に導入されますが、織物業界でも政府
の勧業奨励政策により、イギリスやフランスなどの紡織機の調査を行い、効率の良い
機械の導入を図ります。高級品の西陣織や博多織に適した織機としては、フランスの
ジャカールが1802年に発明した紋織機(ジャガード)が選ばれて、明治7年に購
入して模範工場を造り、日本式に改良して普及していきます。これは図柄を紋紙(パ
ンチカード)にして、織り糸の上下動を自動化する方法で、初期コンピュータのパン
チカードはこのアイディアをもとにしたと言われています。

紋紙の形状
博多織にも明治20年に最初の紋織機が導入され、この紋織機の普及により博多織の
作業能率が向上し、生産規模が増加し織元の数も増えていきます。明治20年に10
7戸(290基)、30年には240戸(467基)までになりました。業界には明
治16年に博多織同業組合が出来て、今日の博多織工業組合に至っています。
さらにその後織機の電動機化も進み、生産速度の向上が進みますが、
一方では明治後半から大正・昭和の時代に入って洋服の普及がひろまり、和服用の博
多帯は需要の伸び悩みに苦しみます。したがって商品は帯地、袴地から襟飾り、襟地、
卓被、窓掛け、椅子張り地、ネクタイ、財布、名刺入れなど多様化して現在に至って
います。
また明治維新後は絹糸の国内生産が活発になり、日本の代表的輸出品にもなります。
地元小竹では常岡源吉翁がリーダーとなって養蚕業がひろく行われました。本人は単
身で信州各地で技術の修得をしたり、直接米国に乗り込んで販路拡大に成果をあげま
したが、米国で客死しました。小竹公民館の前に大きな記念碑がたてられています。

常岡源吉翁の顕彰石碑
(5)昭和初期の博多織新技術(中西電気紋織)
明治維新直後に開業した前述の中西織の店は、私が小学校に電車通学していた頃の記
憶では土居町に本店がありました。明治35年生まれの中西金作氏は、この中西織屋
に生まれて20歳まで家業に従事し、入隊した大刀洗航空隊の無線電信隊で電気技術
を学びます。大変なアイディアマンで、父親が苦労して作っていた紋紙造りの作業を、
なんとか電気技術で自動化出来ないかと研究を始めます。2年で除隊した後も理研の
無給研究員となって研究を続けて、遂に写真や図柄を紋紙なしでそのまま織物にする
ことに成功したのは昭和6年頃でした。電送写真やテレビも無い頃に、光電管により
原図のスキャン信号を処理して、織り糸の上下動を電話交換機のリレーコイルにより
実現させた創意は見事なものでした。多くの特許をとり昭和7年に恩賜発明賞、昭和
8年に朝日賞など発明家としては多くの栄誉に輝いたのですが、これをすべての博多
織に直ぐ利用するには業界の抵抗や技術的問題があり、有名人の肖像写真などを織物
として贈り物にするのが主な商品となっていました。
(6)中西電気紋織との関わり
戦時中は博多織業界も縮小されましたが、中西氏はその発明能力を評価されて、太宰
府にあった彼の工場は海軍指定の疎開工場兼研究所となり、各種の研究試作が行われ
たようです。終戦後は、再び肖像写真の織物化が主な仕事となり、マッカーサー、毛
沢東、周恩来など外交上の要人えの贈り物の注文が多かったようですが、経営や経理
に弱い発明家の中西氏には財政的に苦しい時代が続いて、電気紋織機も十年近く止まっ
ていた時代がありました。
私が電気紋織と関わりをもったのは昭和50年代初期のことで、当時の安川寛会長か
らよばれて「博多電気紋織」の存在を伺い、この地元ベンチャーの技術が埋もれてい
るのは残念だから、復活の可能性があるかどうかを検討するように命じられた時です。
早速発明者の中西金作氏(当時は75歳位)にあって色んな経緯を聞いたり、休眠状
態の太宰府の工場を見学したりしました。中西氏は過去の代表的製品のコピーを保存
しておられ、「これが安川家からの注文でした。」と、安川・松本家と親交のあった
アトモア家の人の肖像写真の織物などを見せてもらいました。安川寛会長もこれらの
織物を通じて電気紋織に興味を持たれていたようです。
織機は木製の伝統的機械に電話リレー群による操作装置を取り付けたもので、電気制
御装置はまだ真空管式のものでした。こんな雑な機械で精度の高い織物が出来るのか
と直感的に思いましたが、織物の図柄は写真ほどの精度はなくてすむようです。この
装置のトランジスタ化をするのは簡単ですが、画像処理装置のほうは相当痛んでいて
再生に手間取りそうでした。
その後安川寛会長が寄付された基金で装置の再生を行なって、いくつかのサンプル織
物を実現するところまで私が担当しましたが、その後ニューウエルの事業として営業
されることになるころ私は退職しました。
(7)博多織のパソコン化
九州工業大学に移ってしばらくして、中西金作氏の親類で中西織工芸の中西一夫氏の
訪問をうけました。「若手仲間で博多織の改良を研究していますが、今からはパソコ
ンの時代になるので、指導をお願いします。」という依頼でした。当時福岡のソフト
会社に相談しても、ビジネス用のソフトばかりを手掛けていて、織物のような特殊技
術に対応してくれる所は無かったそうです。まだ8ビットパソコンの時代で、私も
BASIC言語のプログラム技術を修得したばかりでしたから、「一緒に勉強しましょう」
ということで、また博多織に関係することになりました。
中西織の工場、福岡県工業試験所、博多織組合展示場などの見学をさせてもらい、何
から手がけるかを考えました。当時工業試験所では電気メーカーと共同で、本格的コ
ンピューター化の研究にとりかかり始めた頃でしたが、我々には研究予算もないので
自分たちで手がけられる身近なテーマからということになりました。
丁度中西織の一部で主婦相手の「博多織教室」をはじめていましたので、その教材を
パソコン画面で表示することからはじめました。平織り、綾織り、繻子織などの原案
図は中西織で何種類も用意されていましたので、この図柄のパソコン表示を私の研究
室の女子学生の研究テーマに選びました。
図柄の専門的なことは中西織の方と打ち合わせながら、7種類位の代表的な図柄のパ
ソコン表示を半年で完成できました。この成果をもとに中西織の織物教室では教材の
拡充をはかり、CAEの効果をあげられたときいています。
(8)電気織の近況
中西金作氏はジャガードの紋紙を電気化したことを強調して、「中西電気紋織」と名
付けられましたが、商品としては写真肖像の織物化が中心でしたから「中西写真織」
とも呼ばれていました。しかし写真といっても白黒の時代ですから、あくまで2色で
の織物で、紺色の背景に銀色または金色で織ったものが多かったようです。
このコンピュータ化は工業試験所(現在の工業技術センター)中心にその後も続けら
れて、2色織りの段階までは5年位で成功したようですが、多色織りにはさらに10
年位手間取ったようです。最近ようやく8色織レベルの技術が完成して最初に書いた
ように「中世博多展」への出品となったわけです。
「元寇の海戦図」が織られていましたが、最近のディジタルカメラの技術とくらべる
と、画像の取り込み技術は同じでもプリンターに相当する織機の糸の数と色が制限さ
れるために、色調が今一つ乏しく感じました。

電気織の展示写真(元冦の海戦図)
組合ではこれを「博多電気織」と名付けられていますが、まだ高価な機械なので1台
しかなくて博多織組合で管理しており、どの織り元で注文を取っても組合で織り作業
をするそうです。
電気織が工業製品として新市場を獲得するためには、品質の他にコストやスピードな
どクリヤーすべき問題がありますが、工芸品としての的確な用途を開拓できれば面白
いと思っています。私が中西金作氏から記念にいただいた「広隆寺の弥勒菩薩像」は、
2色ながら見飽きない優雅な掛け物として今も毎日眺めています。このような宗教美
術の世界は聖一国師が提案したように、新市場の一つではないかと思っているこの頃
です。

電気織(コンピューター織)
著者:絵歴Talk-2000(gfujino@yahoo.co.jp)
頁作成:櫻井裕子(yukos@land.linkclub.or.jp)