[古賀市の歴史]
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この掟は、筵内の もと庄屋の安武幸文家に代々伝わる書棚の蓋の裏側に記載されて残ったものです。
黒田氏が筑前に来たのは1600年ですが、その支配のために まず検地して、きちんとした貢租体系を組み立てました。
村単位に庄屋、組頭、5人組を軸として、連帯責任制で農民を統制しました。
時とともに、農民への負担も大きくなりました。
その重税と公役に耐えきれず、田を捨てて逃げ出す農民がでるようになりました。
連帯責任のため、その田を村中で耕作して年貢を納めなければなりませんでした。
その田が年々多くなり、残った農民は、一層、困窮していきました。
そして、ついに、宝永8年(1711)に庄屋や頭百姓が集まり詮議して、この
「筵内村の掟」
を作りました。
この「掟」は当時の農村の様子やしきたりを物語るものとして重要なもです。
現代用語にすると次のようになります。
「掟」
「私は田地を作っても要求されるような年貢が収められませんから、田地は村に返します」と言ってくる百姓がとても多くなり村では、もう手に負えなくなりましたので、この「掟」を作りました。
永代田地でも 借りた田地でも15年未満の田地は、無償で 本(元)の持ち主に返してよい。
(注:当時は、田地を持つことは、重税の対象になるからおまけを付けてでも、手放したがっていました。
そして、本の持ち主が、年貢や公役の責任を負わなければならなくなりました。)
事情によっては、15年以上長く田地を所有していたものでも、本名に返してもよいこともある。
いったん本名に戻った田地は、どんなことがあっても本名が責任を持たなければならない。
もし、本名も倒れてしまったら、農村全員で、割り付けて責任をとること。
以上のように話し合って決めましたので 以後これを守るように。後年のため、文書にして残します。
1771年3月8日
庄屋 嘉一
頭百姓一同
(注:庄屋 嘉一の名は宝永8年建立の熊野神社の一の鳥居にも残っている)
:
筵内村の掟」は当時の事情が分からないとなかなか難しいですね。
私の父の時代でも、鶏などをつけて「田地を引取って下さい」と言っていました。
現在では、土地を持ってほうが良いですがね。
:
この掟を読むかぎりでは、この掟を作った 庄屋の嘉一さんや頭百姓さん達はまず、自分たち 頭(かしら)で責任を持とう、もし、自分たちも倒れたら、そしたら、村全体で、割り付けしようと言っている様に解釈したのですが、私 間違っていますか。
とても、進んだ、民主的な考え方に、みえるのですが..。
:
そうですね。
でも民主的といえるかどうか。
昔の庄屋や頭百姓は、とても力を持っていましたからね。
(ひとりごと:この掟は、掟で、物事は、そう単純ではなく、弱いところに、どうしても、負担がかかるのかな??)
:
この「掟」から伺える二つの興味深い要素があります。
一つは、中世からの 本に戻して復活させようとする「徳政」の考え方。
もう一つは、「そう」という南北朝時代からの農民の自治組織のことです。「掟(おきて)」という言葉も「そう」に由来します。
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作成:
櫻井裕子(yukos@land.linkclub.or.jp)