1654-1708
薦野立花家から、多くの優れた人材がでていますが、第3代黒田藩主光之に近仕した立花実山はその中でも傑出した人でした。
当時、江戸幕府は、4代、5代将軍となり幕藩体制確立期から文治政治へと移行していました。
つまり、藩が、武に秀でていては、幕府は謀反をおこすのではと疑い恐れて、藩をとり潰したりしますので、文に秀でることに重きを置くようになりました。
儒学、医学、天文学、数学、歴史学など、学問が発達しました。
貝原益軒(1630-1714)は、当時黒田藩が支援した学者です。
そんな時、第3代黒田藩主光之の文治主義体制を支え、推進したのが、当代随一の器量人と称されていた立花実山です。
実山は数え年8才から光之に近仕し、光之の死まで47年間側近として 力を奮いました。
実山は側近としての繁忙の中で 「南方録(なんぼうろく)」というお茶の本を書きました。
現在も南方流茶道、武家流茶道として継承されているそうです。
光之に重んじられた実山は、光之の死後、幽閉され一年半後に54才で非業の死を遂げました。
光之の世の終わりを予感していた実山は、自分自身や一族の将来を慮り、従弟の増能(ますよし)に薦野立花家の系図「薦野家譜」を編集させました。
また自らも、立花家の系図を整理して「タジヒ姓薦野氏系」をまとめました。
実山の位牌は薦野の清瀧寺に残っています。
市文化財調査委員の長崎先生や村山競先生の講義で「薦野家譜」や「タジヒ姓薦野氏系」を古賀市歴史講座で学んでいます。
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- 「実山さんは、黒田藩で千利休みたいな役割をしていたのでしょうか?
つまり藩の文化の担い手であり、マナ−の先生みたいな。
でも、どうして非業の死を遂げたりするのですか?」
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- 「そうですね。それだけ力を持っていたから、無理押しもしていたでしょうからね。
光之には、綱之、綱正という子供がいたのですが弟の綱正が藩主になりました。
「樅の木はのこった」を知っていますか。
あれは伊達藩ですが、黒田藩でも同じようなことがあったのです
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- 「藩内の権力争いのために、非業の死を遂げたのですね。」
- 注:実山の死は、この綱之綱正の黒田騒動のときではない。
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作成:櫻井裕子(yukos@land.linkclub.or.jp)