(前史)
手元の『古賀町誌』によれば、「明治・大正頃、古賀を中心とする地域は全くの松林の連続で、現福間駅より筑前新宮駅に至る二里(八キロ)あまり、いわゆる花見松原より新宮松原にわたる数百町歩の間は、往還もなく、只狐狸の跳梁するところであった。」(247p.)とあります。
もっとも、明治5,6年の古賀村(旧大字古賀地区。現行行政区ではおおよそ中川・古賀南・北・東、花鶴丘の一部に相当する)には 85戸(401人)、同41年には 121戸(601人)が住んでいたとの記録もある(80,81p)ので、うえの引用文は、たくさんの狐狸に混じって人影もまばらに見えたと訂正しておくべきでしょうか。
いずれにせよ明治・大正期にしてそうであるなら、それ以前のことは推して知るべしでもありましょう。「古賀の古狸」「大松明(おおだいまつ)」「栗原の怪火」など、化け物怨霊の伝説民話(410-421p)にも事欠かぬとあっては、古賀のその昔は何ともおどろおどろしい土地柄でもあったらしい。
古賀一帯がかなり長期間こうした辺地として取り残された理由の一つをさかのぼれば、古代より赤間を拠点に勢力を振るった宗像氏と、太宰府を取り巻く新興勢力の角逐にいたる。
中世(鎌倉・室町時代)にあっては、宗像氏と香椎・新宮を本拠にする立花氏が互いに競り合う合戦場(小金原の戦)ともなり、近世(戦国・徳川時代)においては、福岡に根城する黒田藩と小倉に本城を置く小笠原藩との狭間にあり、いずれの時代にあっても、政治文化の中心部から遠く離れた辺地に位置づけられていたということです。
すっかり様変わりした現代ですが、古賀が福岡都市圏と北九州都市圏の中間に位置し、福岡都市圏の北辺部にあたるという、歴史を受け継ぐ基本構図に変わりはないように思われますが、いかがでしょうか。
(1999/05/07.)
タンメイ(hzz03163@nifty.ne.jp)
作成:櫻井裕子(yukos@land.linkclub.or.jp)