
(発展の胎動ー古賀駅誕生とその影響)
狐狸の跳梁に任せたと言われた古賀村一帯にも、やがて発展へと向かうきざしが見え始めました。そのきっかけは何といっても、鉄道の開通、そして古賀駅が誕生したことでしょう。
鉄道は最初、九州鉄道(私鉄)により、明治23年9月28日(1890)博多−赤間間を結ぶ陸蒸気線として開通完成し、香椎駅と福間駅との中間に古賀駅が誕生しました。「花見松原をきり開いて建てられた小さな駅舎で、駅員4名ぐらいで本線1本と貨物線1本で発足した」(267p.)との短い記述がありますが、それでも駅周辺部を含めた状況が十分目に浮かぶようです。
ここで一つ疑問があります。古賀駅が誕生した明治23年は、市町村制施行に基づき、古賀村はその周辺村落(筵内・久保・庄・鹿部)と統合して席内(ムシロウチ)村をすでに発足させた(この年に小野・青柳村も同時に発足)翌年に当たり、席内村の駅として席内駅が誕生していたとしても少しもおかしくはなかったということです。おそらく席内村の誕生間もない時期で、席内の呼称は内外とも馴染みが薄いところから、古賀駅と決まったのでしょうが、仮に古賀駅ではなく席内駅が誕生していたら、今頃は古賀市の代わりに席内市が誕生していたかもしれません。たかが名前の問題ですが、歴史的偶然のいたずらともいえましょう。
鉄道の開通と古賀駅の開設は、「とにかく博多との往来が激しく多くの客が乗降し、米・麦を主に農産物の積み出しが盛んであった」とある(267p.)が、この言葉は俄には信じがたい。なにせ狐狸の跳梁する松原をきり開いてできた小さな小さな駅である。米麦の積み出しはともかくとして、それほど多くの乗客が乗り降りしたとはとうてい考えられない。効果が多少とも表れ始めるのは、それから20年もたったあと、手狭になった駅舎が「香椎駅の古材で改築された」明治43年(1910)のころ、あるいはもっと先のことかとおもいます。今も駅前に残る「小松屋」は最も古い創業を誇るが、それでも明治42年(1899)の創業と聞いております。
やがて(1907年)九州鉄道は解散、同時に軌道は鹿児島本線として国有化され、北九州への接続とともに複線化が進みます。古賀地区の複線化は大正の9,10年(1921-22)で、これには「大根川のバラスが利用され、遠く筵内より、トロッコや馬車に乗せて運ばれた」とあります(267p.)。因みに大正15年(1926)の古賀駅集荷口別発送トンのトップ高原砂積場の 3,108トンで、当駅総発送高の22%を占める。大根川バラスの商品化は古賀周辺地域にとっては、鉄道敷設・古賀駅誕生による直接の、そして最初にして最大の経済効果だったかもしれません。
鉄道の整備が進むにつれて、やがて古賀駅周辺へ製造工場の進出・集積が始まります。大正8年(1920)の日本調味料醸造KK(現ニビシ醤油)や大日本製油KK(記録のみで詳細不明)を皮切りに、昭和9年(1934)岡部鉄工所(現岡部機械工業KK)、昭和12年(1937)の高千穂製紙工場(1970年に閉鎖)、昭和17年(1942)の西部電機製作所、さらに戦後に入っては、峰製作所、児島段ボール、正興電機製作所、安谷製作所、九州製版印刷(現凸版印刷)等々が続き、古賀駅周辺部(主に駅西北)に工業団地が形成されていきます。
こうした工業団地の形成には、大根川(一部は中川)の水利用もありましたが、主因はやはり原料・製品についての鉄道輸送の便にあったようです。そのことは、例えばニビシ醤油や高千穂製紙などが、古賀駅からの引き込み線を利用した操業であったことからも明白でしょう。
古賀の工業発展は、直接的には、法人税収による村(町)財政(昭和13年席内村町制施行により古賀町と改称)を大いに潤すことになったのは容易に想像できそうです。とりわけ大型資本の高千穂製紙に関しては、一時的にせよ、町財政総予算が高千穂製紙からの税収(町民税法人税割・固定資産税・電気税など)でまかなえる年もあったと聞いております。また今も残る市庁舎脇の立派な慰霊塔は高千穂製紙の寄贈によるもの、さらに右側に建つ和風建物は岡部機械工業からの寄贈によるとも聞いております。
古賀駅開設による第3の経済効果があったとすれば、それは古賀駅西南部に開けた商業圏、いうところの駅前商店街の形成ということであったかとおもいます。しかしこの方は工業地帯の形成ほどには、はかばかしくなかったようで、古賀駅誕生から20年ほど経った明治42年に初めて古賀町購買店(農協系?)が現れ、古賀町誌の編者も「(駅前商店街は)大正の中頃(大正八年頃)以降発展していったものと考えられる」(225p.)とも、また別の箇所では「国鉄古賀駅前商店街は、昭和26年に誕生し」(220p.)とあります。
人口集積が近隣村を含めても、なを十分ではなく、駅前商店街を産み出す程の購買力となり得なかったことが主な原因でしょうが、それでも、昭和6年(1931)時点で、駅から菰野踏切に抜ける短い区間(「駅前道り」)と、国鉄古賀駅から西鉄古賀駅に抜ける区間(「本町通り」に、合計3,40軒ほどの店が並んで、どうにか駅前商店街の雰囲気はうかがえたようです。
これらの商店が駅に集散する人々の流れを客層にしたであろうことは容易に想像できますが、「本町道り」については、大正14年(1939)に博多湾鉄道(現西鉄津屋崎線)が開通し、「新古賀駅(現西鉄古賀駅)開業により、新宮村方面の旅客で筑豊・門司方面に行く人は新古賀駅にて下車し、古賀駅で乗り継いだ」(261p.)ことによる、新たな人々の流れによることも大きく影響したようです。なおこれにいう「旅客」の多くは、おそらく北九州・筑豊に向かう通勤客ではなかったかとおもうが、想像の域をでません。
駅前商店街が本格的な賑わいを獲得したのは、人口の集積がもっと進んで、昭和26年(1951)に町が古賀駅前商店街建築分譲を行ったずっと後でもあったようです。しかしそれはもう古賀駅誕生の効果というよりは、人口集積が産みだしたものとみるべきかと考えます。
古賀駅が誕生し、その周辺に工場がやってきて、不十分ながら駅前商店街も生まれはじめた。そうなれば人口・所帯数も自ずから増えてくるのは当然で、席内村の人口・所帯数は旧古賀村を中心に近隣村(青柳・小野村)のそれを大きく抜いて増加した。そして昭和13年の席内村町制施行には、席内村改め古賀町が誕生した。そしてそこはもう(たまに狸を発見することはあっても)狐狸の跳梁する地域では決してありませんでした。
(1999/05/14.)
タンメイ(hzz03163@nifty.ne.jp)
作成:櫻井裕子(yukos@land.linkclub.or.jp)