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タンメイのミニミニ古賀史(3)
(近代化の中の古賀町)

 前回私は、狐狸の跳梁を思わせる数キロにわたる荒涼とした松林の中に 忽然と誕生した古賀駅。その駅周辺部にやがて工場が現れ、駅前商店街らしきものが形成されはじめたこと。それらによって、明治の初め頃には、戸数100戸たらず、人口では400人そこそこの一寒村に過ぎなかった古賀村が、結果的には、周辺諸村(筵内、久保、庄、鹿部)を統合するかたちで、古賀町を産みだしていく過程について考えてみました。
 上は古賀村を含めてこの地域が、明治以降におけるわが国の近代化・資本主義化・貨幣経済化への波に、否応なしに巻き込まれていく過程でもありました。この意味では、鉄道(鹿児島本線)の開通は、この地域一帯の近代化を増幅し、駅周辺部がたまたまその核になったということでもありましょう。
 近代化の一側面は、米麦生産中心・自給経済色の濃い伝統的農業社会から、生産資源(土地や労働力)の多くを、より高次の産業(商品生産農業・製造業・商業・サービス業など)に移し替え、それによって得られた金銭で必要物資を商工業に求める近代産業社会へ移行ということでもありました。そしてこうした近代産業社会に象徴される駅周辺部の開発が、この地域の在来農業や人々の生活様式に若干の影響を与えたことは十分予想されるところですが、こうした問題について少しみておくことにします。
 まず土地資源についてですが、開発が急速に進んだ駅周辺部が、農耕地に適しない砂地の松林だったことは、開発が土地資源の面で地域の在来農業に与えた影響は比較的小さいものではなかったということが予想されます。そしてこのことは、傷痍軍人福岡療養所・結核療養所清光園(共に昭和13年(1938)設立)や結核療養所福寿園(昭和18年(1943)設立)などの国立療養所(昭和37年(1962)に統合され今日の国立療養所福岡東病院となる)を中心に開発が進んだとされる(119p.)千鳥地域(久保区)についても、あるていどいえることかとおもいます。
 戦前の耕地面積の推移を伝える十分な資料を欠いておりますが、明治40年(1907)から大正10年(1921)に至る耕地面積の変化で、近隣村(小野・青柳)での耕地面積は僅かながら減少しているのに、席内村(古賀)では2%ほど増加している統計もみられる(130P.)ところから、駅周辺部の開発による地元農業への直接的な影響は、ほとんど無いか、あっても微弱であったことが考えられられます。
 駅周辺部土地の所有関係については、国有地や民有地などが入れ混じっていたようで、その詳細はよく分かりません。民有地では(町)外地主所有のものが多かったようで、これらの土地が必ずしも農耕に適さない砂地として地価も低かったことを含めて、土地取得についての抵抗は比較的小さかったであろうことが考えられます。そしてこうした土地がかなり広い範囲にわたって残っていたことが、開発をスムーズにした大きな原因であったようにもおもわれます。
 一方、労働力事情はどうだったのでしょうか。一般に産業の高度化(商工業の発展)は、そのために必要な労働力を在来産業としての農業から吸い取っていくほかはないものですが、明治40年から昭和10年にかけての、当該地域(席内(古賀)・青柳・小野村)の農家数は増加(898戸から1,034戸へ)こそすれ決して減ってはいません。また兼業農家もそれほど多くは増えていません。このらのことは、古賀駅周辺についての開発は、前にみた土地資源と同様、労働力資源についても、この地域一帯の農業労働事情にそれほど大きな影響は与えなかったよう推察されます。
 農家数(農家人口)があまり変わらなかったほぼ同じ期間(明治41-昭和10年)、小野村や青柳村では所帯数微減、人口微増の傾向が続くなかで、席内村(古賀)だけが所帯数・人口共に50パーセントていども増加します。このことは、駅周辺の開発に直接関与した人々の多くは、地元出身者ではなく、地域村外からの移住者ではなかったかということにもなりそうです。
 なお同じ時期、北九州工業地帯・筑豊産炭地帯の形成・発展は、北部九州一帯の広い地域範囲にわたって、労働力移動に大きな影響を与えたことが知られていますが、これらについて古賀町誌で触れるところはほとんどありません。位置的にいって全く影響がなかったとはとうてい考えらませんが、あるいはかなり早い時期から、北九州・筑豊労働市場とは隔絶した特殊地域労働市場がこの地域に形成されていたのかもしれません。ただしこれらについては資料不十分で断言はできません。
 古賀駅(および東病院)周辺部の開発は、地域在来産業としての農業には、あまり直接的な影響を与えることなしに進んだことを申し上げましたが、近代化のより大きな力としての貨幣経済化(生産・生活部分に占める貨幣の重要化)からも、この地域の農業が無縁というわけにはいきませんでした。端的にいえば米麦以外にもっと儲かる換金作物の生産ということで、商品生産農業・商業的農業の展開とも呼ばれています。
 繊維作物マオラン栽培は、北部九州一帯の農家で一時的に流行した商品生産農業のあだ花ともいえるものでしたが、昭和の初め頃から戦時にかけ、小規模な繊維採取工場とともに、この地方でも小野村(特に米多比区)を中心に広く栽培されていたようです。昭和5年(1930)に席内村(古賀)日吉台に設立された古賀国益マオラン工場は、その跡地利用というかたちで、後に高千穂製紙進出のきっかけともなったようでした。
 マオラン以外で当地にみる商品作物には、一般的なものとして菜種・養蚕、地域特徴的なものとして柑橘類(ネーブル・金柑・夏柑・温州みかん等)がありましたが、これら柑橘類は明治末から昭和の初めにかけて、主として青柳村の先覚者達のアイデアと努力の結果として開発されていったものであり、戦後の一時的でしたが、この地方一帯が有数の柑橘産地としてしられる基礎を築きました。養蚕は昭和初期の糸価の暴落をきっかけに衰退し、菜種は昭和31年(1956)の作付けをピークにその後は急速に衰退し、いまでは養蚕共々ほとんど当地にみることはありません。
 青柳村を除き農業の発展にみるべきものがなかったことは、すくなくとも戦前における駅前商店街の形成が、十分には進行しえなかった一つの理由ともいえましょう。あるいはまたそれ以上に、戦後になって福岡都市圏への影響が大きくなったとき、既耕地を浸食しての宅地開発が急速に進行していった大きな理由ではなかったかとおもいます。
(1999/05/21.)
タンメイ(hzz03163@nifty.ne.jp)
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作成:櫻井裕子(yukos@land.linkclub.or.jp)